2006年10月アーカイブ



ニュージーランドに来て早いものでもうすでに6 年の歳月が流れました。
この間のすべての出会いと出来事にいまはただ感謝、感謝の一言に尽きます。
右も左も分からないままニュージーランドに降り立ったその翌日からワークビザの申請、家の手配に子供たちの学校、仕事の紹介などなどニュージーランドでの生活基盤のスタートと確立を1 から10までお世話してくださった中野宏さん。
また、奇跡としか思えないスージーとの出会い、永住権取得のためのあらゆるサポートをしてくれました。

わらNZ の開設と起業に関して、金融機関や弁護士との折衝、電気、ガス工事の手配から、日々の暮らしの細かい具体的な援助、そのうえ子供たちの学校生活のアドバイスまで、まさにスージーは私たちにとってニュージーランドの母親でした。
子供たちの留学の際には保護者になってくれ、NZ での生活が始まってから親身になってアドバイスをしていただいた大阪屋の弓削さん。

この人たちとの縁なくして、私たちのニュージーランドの生活はあり得なかったと思います。
見も知らぬ他人のために、こんなにも善意に満ちた、利他に生きる人に出会えて、人の世の情けを改めて知ることができました。

「出会い」              
  人の世の出会いは すべて " 必然"
  「はじめまして」は「おひさしぶり」
  そして 「やっとあえましたね」
                     小林正観

まさにこの詩の通り、私たちがニュージーランドに来ることを、知っていて待っていてくれていたようでした。

その後、多くの人々に支えられ、応援していただいたお陰でわらNZ は、私たちの予想をはるかに超えて発展してきました。
私たち家族にとっても、かけがえのない貴重な体験と素晴らしい時間が与えられました。
旅好きの私たちにとって、世界の箱庭と呼ばれるニュージーランドはまさに天国でした。

何度行ってもおおらかな気持ちにさせてくれる優雅な町クイーンズタウン、雄大な姿で優しく迎えてくれるマウントクック、息を呑む絶景のミルフォードサウンド、異次元空間だった氷河ハイキング、まるで天空の丘にいるようなスキー場マウントハット、刻々その湖水の色を変える善き羊飼いの教会のあるレイクテカポ、山と緑と湖の絶妙のバランスの美しさを誇るレイクマセソン、ポプラの紅葉とブドウ畑と湖のコントラストが楽しめるワナカのワイナリー、触れるくらいの距離で見ることのできるペンギン、オットセイ、イルカ。

心に残る景色は尽きません。またニュージーランドならではのアクティビティー、雪上セスナで降りるタスマン氷河、まるで空中散歩をしているようなパラパンティング、かつてないスリルと爽快感を味わえたけれど、もう二度としたくない上空4500メートルからのスカイダイビング、そしてなんと言っても一番楽しかったのが、生きた動物との対話も楽しめる乗馬。
日本では食べること以外に趣味のなかった私にとって、とても新鮮な体験でした。

クライストチャーチでの日常生活は、忙しくも暇でもなく丁度いい加減の間隔でお客様が来てくださっていたので、私たち自身がゆったりとした気持ちでお迎えすることができ、双方とも快適な時間を共有できたと感じています。
日本と違い、ゆったりとした時間の中でお気に入りのレストランでの食べ歩き、オーガニックカフェや我が家のウッドデッキでのコーヒーブレイク、サンデーマーケットでのショッピング、リカトンブッシュやハグレーパーク、サムナビーチでの散歩やジョギング、庭の芝刈りに庭木や花壇の世話、裏庭の小さなベジガーデンで野菜作り、バドミントンに車庫での卓球、雨の日にはベッドやテーブル作りのクラフトタイム。

こうしてニュージーランドは何かに追い立てられることも急がされる事もない時が流れ、まさにかけがえのない至福の時間と空間を与えられました。

前回も書きましたが、昨年、大木の精霊から次のようなメッセージをいただきました。

『これまで積み上げてきた、たくさんのものを手放す時期がきています。たとえばお気に召さないかもしれませんが、小さな瞳を輝かせた少年が自分の夢の実現を目指して、全力を傾けて駆け抜けて来たように思います。その瞳の輝きは今もいささかの衰えも見せず、自分の役割もさらに深く理解し始めています。けれど大いなる形を現実のものとするためには、手に入れたものを手放し手元にはたくさんの思い出と大きな幸福感だけに留めることがより高いあなたとのつながりのために必要であるように感じています。どうか志を高く大きく新たな目標を掲げて光を見ていただけると嬉しいです。落ち着くということと一時休むということは似て非なるものです。落ち着く必要はありません。よい兆しです。』

そう、その目標がこの一年ではっきり見えてきたのです。
私のテーマ「食を通して生き方を探る」「幸せは食にあり、食は幸せなり」私の原点、小川法慶先生から教えていただいた重ね煮を、より多くの人に食べて頂き、おいしく楽しくありがたく健康で幸せな人生を送るお手伝いがしたいと強く願うようになりました。

ニュージーランドに来て、シュタイナー農法を実践している農場で、その農法の核心となる調合剤を作らせてもらっている時に、はっと気がついたのです。
「これって、重ね煮と同じ!?」この調合剤の作り方は、牛の角の中に牛糞を詰め、半年間地中に埋めて、熟成させたその牛の糞を少しだけ大きな樽の水の中にいれ、その水がロウト状になるまで回転させ、それを一旦破壊し、次に反対方向に回転させる、それを一時間もの間休まず続けて作ります。
水が回転し渦を形成したとき、宇宙を形成するスパイラルと同調し、その宇宙エネルギーが、調合剤を作っている人の愛と祈りとともに、水の中に記憶として取り込まれるそうです。
桶の中で繰り広げられる回転と破壊はカオス(混沌)とオーダー(神の意思、調和)の繰り返しで、まさに宇宙の創造が行われているとされています。
その調合液を畑に蒔くことで大地は宇宙エネルギーと、人間の愛と祈りに満たされ、そこで育つ作物は私たちにとって最良の食べ物となるのです。

こんなあやしげな農法がドイツを中心に世界中に広まっているのです。
この農法で作られた作物には「DEMETER」というブランドがつけられ、欧米ではもっとも安全で信頼度の高い作物として流通しています。
自然医薬品、自然化粧品メーカーとして世界的に名高いWELEDA 社の原料もこのDEMETER が使用されています。
この調合剤を作っているとき、重ね煮の料理を作っている時と同じ感覚が思い出されました。

自然の力(オーダー)で成長し、調和の取れた生命として存在する野菜を包丁で切り分けてカオスの状態にして、鍋の中で整然と重ね、火というエネルギーを加え、オーダー(調和)が始まる。
もちろん野菜を切るときも、鍋に入れるときも、自然に対する感謝と祈り、そしてビタミン愛を入れて料理します。
対象や方法は異なるけれど、双方とも鍋や樽の中に調和された小宇宙を創造する、同じことをしているのだと直感したのでした。

このニュージーランドに来ることによって、30 年前、小川先生から学んだ重ね煮に、新たな意味と方向性を見出せました。
武道には、守・破・離という考え方があります。
まず、師の教えを忠実に守り、技を磨き、精進を積み重ねる。
その後、基本を尊びながらも他の教えも学び、" ねばならない" を破壊していく時期。
そして最後に、創造性と独創性を加え、師の教えを離れ、個として立つ。
その人のオリジナリティーを活かした技を確立すると同時に、自己実現を果たすという考え方。

私も無意識のうちに、食養料理の重ね煮を、味においても見た目においても基本を忠実に守りながら、料理屋としてお客様からお金を取れる料理に変容させていたように思います。

日本の伝統文化の世界には決してしてはならない、禁じ手というものがあります。
マクロビオティックの世界にも同様で" ねばならない" がたくさんありますが、なかでも根幹をなす思想に「身土不二」といって、人はその時期、その季節のものを、しかも出来れば12 キロ四方のものを食べるようにという教えがあります。

私はこの6 年間、ニュージーランドに住みながら、9000 キロ離れた、しかも季節まで全く逆の日本で生産されたお米・味噌・しょうゆ・昆布・わかめ・ひじき・千切り大根・高野豆腐を食べるという禁じ手中の禁じ手のなかで暮らしてきました。

マクロビオティックの思想からすれば重大なご法度を犯してきました。
しかしそのことが、イコール悪であり不健康にはつながっていません。
良し悪しということではなく、大原則の身土不二を無視した私たち家族が、6 年間健康で満ち足りた暮らしが出来てきたという事実が存在するということです。

この6 年間で重ね煮も大きく進化しました。
今重ね煮は、野菜の上だけでなく、一番下、鍋底にも塩を振って野菜を重ねています。
そのうえ、鍋底だけでなく、野菜の各層の間にも、ほんのわずかですが塩を入れて重ね煮するようになりました。
これは佐賀の矢山利彦医師の研究によってもたらされました。
鍋底や間にほんのわずかな塩を入れることで、味はもちろんのこと、体にとっても大きくプラスに作用することが、再現性(誰が何度行っても、繰り返し同じ結果が得られること)をもって検証されています。
詳しくは、料理教室やセミナーでお伝えしたいと思っています。
この一番下に塩をふるということは、マクロビオティックを勉強した人であれば、「まさか!そんなばかな!絶対ありえない!もっとも陽性な塩を、一番下にいれるなんて!」という反応が即座に返ってくるほどのご法度なのです。

もちろん私自身も抵抗がありました。
しかし実際に作ってみて、上下に塩をした重ね煮は、あきらかにおいしく、体の反応もいい状態になるのです。
まさに、事実は理論を越える。

20 歳で小川法慶先生に師事し、友人からは玄米バカと言われるほど教えを守り、3 0 代は生きるため教えを破り、4 0 代ニュージーランドに来て教えを離れ、これから迎える5 0代、個として立ち、創造性とオリジナリティにあふれた重ね煮と真のマクロビオティックのあり方を考えています。
こう考えた時、わらの料理に伊藤真愚先生が送ってくださった言葉を思い出しました。

『日本は精進料理、懐石料理などの食文化を構築しましたが、形式に陥りました。しかし、型を残してくれてあるを有り難く思います。もう一度原点に還り、本に務めつつの いのちの吹込みが" わら"で始まりました。素材、調理、器、雰囲気、そして作る人と食べる人との出会いと一体感が新しい食文化を創造していくのでしょう。日本文化に栄光あれ。』

同時に、小川茂年先生の詩も思い出されました。

『わらの食べ物の味は、名前の通り" 和楽" だ。
和とは、出会いを喜んでいる味だ。
みんなととけこんでいる味だ。
ひとりひとりがいかされている味だ。
楽とは、与えられているものが、与えるものになるときの自由さだ。
生かされていることのなかで、本当に生きていることが味わえる命の味だ。
わらべがこころから歌う無心さが聞こえてくる。
天と地と一緒に、わらへ合えるやさしさがある。
そして、大和の風土が生み出している楽しさとなっている。』

ここ一、二年、日本へ帰るたびデトックスという言葉をよく耳にするようになりました。
いろいろなサプリメントもあるようですが、排毒作用といえばなんと言っても、玄米の持つ力は多くの人が認めるところでしょう。
特にその玄米を黒炒りにして煎じて飲むと、よりいっそう高い効果が得られると言うことも、食養の世界ではよく知られているところです。

その黒炒り玄米の生みの親も、小川法慶先生なのです。
その黒炒り玄米が、シュタイナー農法をとりいれたマイセンさんのお米と、松尾信一郎さんの祈りと技術(10年間に及ぶ研究によって玄米に20時間休まず回転と火のエネルギーを加え続けると言う、シュタイナー農法の調合剤やホメオパシーのレメディーの作り方の技法をとりいれた製法)によって、稲の記憶を最大限に活かす玄米コーヒー" メモリザ" として完成したのが昨年の暮れのことです。
詳しくは同封の玄米コーヒー物語をお読みください。

小川先生から頂いたこの重ね煮と玄米コーヒーは、縁ある人々によって進化と発展を遂げました。
また私の中で、30年の歳月をかけて、守・破・離が進行してニュージーランドではっきりとした方向性が出来ました。
私はこれを日本の遺産、人類の遺産の一つとして、後世に伝えたいというはっきりとした目標を持って、日本に帰ります。

レガシー(遺産)脈々と連なる命 過去から未来へ流れる時間 自分の体験を確信をもって伝えることが、次の世代にバトンタッチされる
遺産になる。

中野裕弓 ガイアカードよりもう一つのわたしのテーマ「まず、よき父親、よき夫、よき料理人」これこそがニュージーランドにきた最大の理由でした。

『愛は家庭から始まります。まず家庭の中で不幸な人を救いなさい。
両者が愛し合い、母親が家庭の中心となりなさい。
平和と潤いの家庭が築けたら、隣人を愛しなさい。
自分が、自分の家庭が、愛に満たされなければ、隣人を愛せません。』
マザー・テレサ

日本では忙しすぎて、真剣に向かい合うこともなく流されていましたが、ニュージーランドでは充分な時間と濃密な関係が持てました。
そのお陰でいままで気づかなかったことや、見過ごしてきたことなど、ありとあらゆることが表面にでてきて、親子関係も夫婦関係も最悪で危機的な状態に何度も陥ってしまいました。
「こんなはずじゃなかった!」「こんなはずじゃなかった!」の連続、不平と不満、愚痴と泣き言。
そしてなにより、自分自身の弱さ、身勝手さを嫌というほど味わいました。
しかしそのお陰で、よき父親、よき夫を目指さなくていいんだ。
まずは自分から。

朝から晩まで、24時間、誰よりも一番長く付き合っているのは、自分自身だということに気付きました。

他人に対してのよい人をやめ、自分にとってよい人になる。
自分を愛することしか、何事も始まらない。 
中野裕弓 ガイアカードより

またしてもガイアカードに救われ、大きな気付きを頂きました。
(一家に一つはガイアカードをお勧めします。)
連絡先:0465"23"8828 
ホームページ:
http://www.romi-nakano.com

そしていまは、その危機的最悪の状態を経験したお陰で、なによりわたし自身が楽になったし、家族中に、穏やかな風通しのいい平和な空気が感じられるようになりました。

ニュージーランドの暮らしが、私にプレゼントしてくれた最大のものは「よき父親、よき夫」とがんばらなくていい。
まずは自分からということであり、ひとにとっての幸せは、社会的地位や事業での成功ではない。
今ここにある、おはようからおやすみまでの、この暮らしの中にこそあると実感させてくれたことです。
こんな気付きを与えてくれた長男の謙雄にありがとう。
二男の耕太にありがとう。
娘の藍にありがとう。
妻のかおりにありがとう。

船越康弘


かおり

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わらNZでの6年間

よくニュージーランドの生活はいかがですか?と聞かれるのですが、一言でいうと海外にいる気がしないですと答えています。それほどにくつろいで生活しています。
空気、水がとってもおいしく、人も人情味あふれていて、春には水仙が咲き、桜並木が見れ、景色は北海道を4倍ぐらい雄大にしたような国です。
ではニュージーランドに来ることになったいきさつをお話しします。

岡山のわらで15年間、営業した後、ここに来たのですが、岡山のわらではただがむしゃらに、子供達を育て、民宿を営業し、一文無しというか借金をしての百姓屋敷わらのスタートでした。いろいろとそれなりに楽しい思い出はいっぱいあったのですが、一番楽しかった思い出というと夏休みの最後の2週間に取る家族旅行でした。
岡山のわらでは、自分を振り返る時間も、夫婦 親子関係を真剣に向き合うこともなく、見つめ直すこともなく忙しさに流されてきたような気がします。
1999年、わらを閉めて、NZに行こうと言いだしたのはわたしで、どこかに
自分を置き去りにして、日々過ごしている現状から逃げ出したかったのだと思います。

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こんな事を言うと百姓屋敷わらを支えて下さった方々に申し訳ないのですが、いきなりわらを閉めてNZに行くと言うことは、いずれ日本で営業する時には客足が遠のいて、ぐっと客数が減るということを期待していました。忙しすぎたのですね。

前述のような理由もそうですが、とにもかくにも子供達が私達のもとを巣立っていく時に後悔のない、安心感をもって見送りたいというのがNZに来た一番の動機でした。
長男が18才でしたから、今しかない、今を逃したらずっと後悔すると思って、何の迷いもなくわらをいったん捨てました。

2000年4月、何のあてもなく取りあえず、観光ビザで日本を出発しました。
今のわらNZを開宿している家に落ち着くまでは慣れない海外生活で色々あり、(今までのわら通信で前述)2年数ヶ月かかりましたが、このわらNZの家に巡り会ったことが、私達家族にとっては忘れられない、NZでの生活のスタートでした。

今度日本に帰ってもこの家の思い出はしっかりと焼き付いていることでしょう。
オーベルジュわらNZでの営業は家族全員が協力しないと運営できない状況でしたから、それぞれが責任感を持って仕事をしてくれました。
わらNZに宿泊された方々の感想を読ませて頂くと、ほとんどは家族みんなでもてなしているハーモニー、暖かさを感じとって下さっていました。
それぞれの得意分野で、醸し出した、チームワークというものを自然と形となって、また、お互いがお互いを必要としていることを実感できたここでの生活でした。

次男が近頃、日本で発した言葉ですが、NZで家族だけの生活をしていなかったら、今でも家族での旅行について行くことはないと言っていました。
長男24才、次男22才、娘19才という年ですから当然ですね。
親としていいように解釈すれば、親と一緒に旅行しても居心地がいい、楽しいと思ってくれてるからと勝手に思っています。

また私個人の事を言いますと、岡山のわらでは、自分をさらけ出すことが出来なかったというか出せなかった15年間だったのがこの6年間で嫌と云うほど、自分の弱さもろさがでました。
また岡山では お客様と、研修生の事に目が向いていて、妻、母親としては、充分な役割を果たしていなかったことに気が付きました。こちらに来ても相変わらずですが・・・

NZでは本当にのんびり、ゆっくり過ごすということはこういう生活なのだと初めて知りました。
家族のみならず、わらNZで知り合ったお客様とは今でも親密なおつき合いが続いているのは、ここで、我が家のようにくつろいで頂き、お互い、語り合えたからこそだと思います。

日本で、講演会、岡山のわらで再びあった時の喜びは、今までのお客様とのおつき合いの深さとは違うものでした。
これこそが客商売の楽しみなのかと実感できたので、是非、今度日本に帰国して新たなるわらを営業する時のスタイルにしたいと思っています。

最後にこの6年間は私達家族5人が家族を実感でき、家族の証を残すことが出来た貴重な体験でした。
子供達とも離ればなれになってもどこかで繋がっているという安心感をこのNZでの生活で、私の気持ちの中に構築されてきましたので、思い残すことはありません。

いまだに子離れできない私につきあってくれた子供達に感謝、これからも長い間おつき合いしてもらう父さん(主人)よろしくお願いします。

                                      船越 かおり

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長かったようで短かった6年間。

13 歳のときニュージーランドに来てからあっという間に6年間が過ぎていきました。
6年前、私が日本に残りたい、ニュージーランドには行きたくないっていっていたら全くちがう人生を歩んでいたんだろうなぁとおもいます。
それはそれで面白かったかもしれません。
でも私はニュージーランドを選んだ、だから他の人生なんてありえないんです。

13 歳から19 歳の一番内面的にも外面的にも大きな変化がある時期に異国の地、そして言葉も文化も違う国で生活をしました。
この異国の地での6 年間はたくさんの出会い、感動、気付きを与えてくれたかけがえのない時間となりました。
ニュージーランドへ来たひとつの目的は両親が私たち子供をシュタイナースクールに通わせることでした。
両親たちはシュタイナーの本を読みあさり、いつかは子供をシュタイナースクールへという夢を抱いていたかもしれません。

ところが、実際にシュタイナースクールに通うのは私たち子供です。
シュタイナースクールとはどんなところか何も知らないまま通いはじめた私には、なぜそこまでしてシュタイナースクールに行かせたかったのか分かりませんでした。
シュタイナースクールは自由への学校であって自由な学校ではないんです。
私が通ったシュタイナースクールは、何をしても許されると思っている生徒が大勢いて、して良いことと悪いことの区別がつけられていないのです。

そんな中、先生は一番使ってはいけない Don’t や Must を使って子供を叱ってしまいます。
一番子供の可能性を縮めてしまう、言ってはならない言葉のように感じました。

高校生にもなると、いくらシュタイナーでもNZ の国家試験は受けなくてはならないので、勉強をしたい人は他の高校へ移り、勉強嫌いの生徒がシュタイナーに残ります。
勉強しない生徒にシュタイナー教育を教えようにも国家試験に受かるように教えなくてはならない先生達。
黒板に向かってただただ話している先生が増えていきます。
私も結局シュタイナースクールは1 年半で辞めてしまい、家から近い普通の公立の学校に転校しました。

 

きっと両親にとってはショックなことだったと思います。
親が夢にまで見たシュタイナースクールに通っている子供3人が誰一人シュタイナースクールになじめず長男はサボるばかり、次男は学校だけではなく先生や友達となじめず途中でやめ、私はまさかのマンモス校に転校。

転校した後はっきり言ってどっちが良かったかと聞かれると転校したお陰で悪いところしか見えてなかったシュタイナーのいい所がたくさん見えてどちらとも言いづらいです。
シュタイナーの生徒たちは誰一人として同じ格好をしていませんでた。
子供のうちから自分に似合う色や柄を良く知っていて、流行などに惑わされず自分の着たい服を自分で作ってしまいます。

みんなと同じであることが何よりもカッコイイと思ってしまう年齢のときにすでに個として生きていました。
新しい学校に入ってまず、アジア人に対しての人種差別に戸惑いました。

シュタイナースクールでは自分がアジア人であることなどすっかり忘れていました。
英語も分からない私に一生懸命みんな話しかけてくれて、少しずつ分かっていくと一緒に喜んでくれ、休み時間全部を使ってひとつの単語の発音練習を手伝ってくれたりもしました。
新しい学校ではネイティブの人たちとの距離がものすごく遠く感じられ名前をなかなか覚えてもらえず“ アジア人” としか呼ばれなかったのには最初ものすごいショックを受けました。

そもそも日本人は自分がアジア人だということを忘れている人が多いようです。
私もそのうちの一人でしたが、日本では中国人やタイ人、韓国人などをアジア人と呼び私たちは自分たちをどこにも所属しない民族『日本人』と呼ぶ。
ところがニュージーランド人から見れば日本人も中国人も違いはありません。
黄色人種=アジア人なのですから。

 

新しい学校では地図やテレビの中でしか知らなかった国の人たちにも出会いました。
まさか、アフガニスタン人に会うとは思いませんでしたが。
ちょうどテロで騒がれた後だったので、学校に居づらいんじゃないのかな?と思っていたのは私だけだったみたいです。

自己紹介のときにアフガニスタン人ですと言われたのが私にはあまりにも衝撃的だったのですが、そんなことははっきり言って誰も気にしてないというか、忘れているようでした。
先生も友達もそんなことは意識せずに接していました。 
何度私が日本人ですと言っても覚えない人が多く、「ごめんね、いろんな国の人が多すぎて覚えられないんだよ、でも、別にそんなことたいしたことじゃないよね?」とよく言われました。

最初のほうは人種差別を感じたりもしたけど、結局は私のほうが本当は国籍にこだわっていたんだな0ということに気がつきました。
心を開いて他国の人たちと触れ合ったとき今まであった彼らに対する固定観念が変わり、今まで知らなかった彼らに出会えました。

ニュージーランドの学校生活の中で一番印象に残ったのはやはりこういった、日本でなかなか出来ない色んな国の人と触れ合い、いろんな文化を学べたことです。
そして何より、ニュージーランド人のおおらかな性格が印象に残っています。
なかなか日常生活の中で実行できないことに、” 人を裁かない、無条件で人を愛すること、口から出る言葉は愛ある言葉と笑顔” などがあります。

ニュージーランドではたくさんの生徒が卒業する2 年ほど前から退学する生徒が増えます。
別にそれが悪いことではなく、先生たちは「学校より大切なことが見つかったんだね、頑張ってね」と言って笑顔で送り出してくれます。
本当に勉強したい生徒だけが残り卒業していきます。
 
一度学校を辞めた生徒も新たな気持ちで勉強をし直したいと言って戻ってくる生徒もたくさんいます。
そして、また大きく手をひろげて生徒たちを迎え入れてあげるのです。

最近になってシュタイナーの思想とは何かを学び分かるようになってきました。
わらNZ では、お客さんのリクエストによってシュタイナーの保育園に見学に行くことがあります。
シュタイナーの保育園には、もう会うだけで心が温かくなるようなすてきな先生アナリーがおられます。
私も何度か通訳としてお客様と同席したことがあるのですが、アナリーの話は私のほうが聞き入っちゃって通訳するのを忘れそうになるぐらいでした。

シュタイナーの思想を話されるのではなく、アナリーが普段、園児とどう触れ合ってるかを笑顔で教えてくれます。
子供たちに一番必要なのは、自然と言う偉大な命の中で私たちは生かされて生きているということを肌で感じて覚えてもらうことと言っておられました。 
決して教えるのではなく、日常の生活の中でそれを身に付けていってもらうのです。

例えば、春には小麦を植え、それからはみんなで水をあげ、秋には収穫、そして出来た小麦を粉にしパンにしてみんなで食べるのです。
そしてまたその小麦を春に植える、その繰り返しです。 
最後に子育てで一番大事なことは何ですか?と質問すると「今までのことは全て忘れてくれたってかまわない、これだけは忘れないで欲しい。
一番大事なのは子供を思う‘ 愛’ だよ」とおっしゃいます。
これを聞いたとき涙が出そうでなりませんでした。
アナリーさんのその言葉、そして、何より自分がそうして両親に育てていただいたことに。



私はニュージーランドで今までの人生の3 分の1の時間を過ごしました。そのお陰で日本にいる時はつらいと思っていた岡山のわらでの生活が他の何にも変えられない大切な13 年間だったと思えるようになりました。

民宿が忙しくひたすら手伝いをしていたように思いましたが、そんな中でアナリーの言う自然という 命の中で生かされて生きると言うことを私たちは学びました。
時間があれば山の中を駆けずり回り、そして私たち子供がみんなに季節の変わり目を知らせていました。
冬の終わりにはふきのとうを採って帰り 春の始まりを伝えていました。
春には山菜、それから野いちご、季節ごとの楽しみがありました。
野いちごの季節には野いちごのムースが食べられるのです。
栗が採れる秋は栗おこわが食べれる運動会。 
贅沢なんて全くさせてもらえなかったけど今から思えば、その季節その土地に自然が与えてくれた食物を一番おいしい状態で食べていたと言うことが何よりの贅沢だったように思います。

小さいときから学校から帰ったら手伝い、休みの日も手伝いをしていて、学校の友達と学校以外で遊んだと言う記憶はあまりありません。
今から思えば普通子供は、余計時間がかかって足手まといになるから厨房になんて入らせないんじゃないかな0と思います。
でも、私たちを子供ではなく一人の人間として大事な戦力として扱ってくれていました。 
だから、両親は私たちにお礼の気持ちもこめて年に一度、一番お客さんが来られる夏休みに2 週間休業して旅行に連れて行ってくれました。
年に一度の旅行は恒例となり毎年行っていましたが、どの旅行も一つ一つ心に残っています。

こうしてわらでの暮らしを振り返って素晴らしいものだったな0と思えたのも両親が15 年間続いたわらを閉め、家族だけで暮らす時間を作ろうとニュージーランドへ行くことを決心してくれたお陰だと思います。
本当は1 年ほどニュージーランドに住むという予定だったのですが、永住権取得によって大きく変わり6 年も滞在することになりました。



6 年間シュタイナースクールに始まり色々なことがありました。
シュタイナースクールに理想を抱いてる方もたくさんおられると思います。きっと本場のドイツに行けば理想に近いのかもしれませんが、やはりきっとどこへ行っても理想どおりというわけには行かないとおもいます。

シュタイナーについて何も知らなかった分、現実を理屈抜きに客観的にそのまま受け入れることができ、それを両親に伝えることが出来たように思います。
シュタイナー教育にこだわらず私たちのしたいようにさせてくれたことに感謝しています。
やはりアナリーの言うように最終的には両親の愛が一番大事なのではないかと思います。

6 年前、家族の時間を取り戻すためだけにはるか遠くの地に移住を決めた、その決意は両親の愛以外何物でもないと思います。
別れ惜しいけどこの思い出のいっぱい詰まったニュージーランドとはもうすぐさようならです。
たくさんの出会い、感動そして気づきをありがとう。
ニュージーランドにいることで気づけたたくさんのことを日本で実体験していきたいと思います。
またニュージーランドへ来る日までさようなら。

『過去は予定通り、現在は手の中、未来は自由自在』

                                      船越 藍


耕太

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NZ での楽しさとは?

私は今、静岡の浜松という湖と太平洋と山に囲まれた自然の豊かな土地に住んでいます。
私の周りには、いつも「自然」があったように思います。
岡山のわらは田舎ですし、15 歳から暮らしたニュージーランドのクライストチャーチも自然がいっぱいあふれているところでした。
これから日本とNZ、そしてこれからの生活についてお話したいと思います。

幼少の頃、私は毎日が嫌で嫌でしょうがありませんでした。
それは、私の家族と他の家族に大きな違いがあったからです。
だから、いつも「みんなと一緒、普通でいたい。」と思っていました。
わらに来るお客様に「いいご家族ですね。」とよく言われましたが、子供心にとても辛いものがありました。

また、親が有名になるにつれて、親と比較されたり、お客様から注意されることも多々ありました。
「先生の子供なんだから、こうあるべき!、これはだめ!あれはだめ!」と。

それが原因で一時、親の名に恥じぬように自分を殺してまで、良い子を演じていた頃もありました。
わらでの生活は、毎日が厳しく過酷でした。
6 歳になったころから、毎晩遅くまで皿洗いをしたり、客間の掃除、トイレ掃除、風呂焚き、薪割りなどの民宿の仕事に追われていました。

そんな生活が15歳になるまで続きました。
土日も家の手伝いで友達と遊べなかったことや、少しでもお皿の洗い残しがあったり、風呂の灰を取り忘れたりした時に親に厳しく叱られたことは忘れられません。
日本での15 年間は、ただひたすら「生きる」という事の修行をした感じがします。

それから、NZ で7 年間暮らしました。
ホームステイをし、それからシュタイナースクールに通い、専門学校にも行きました。
私がNZ に留学して1年ほどして、突然、親から一本の電話がありました。「来週からNZ に行くから。」と。
「理由は?」と聞くと、「子供と一緒に居たいから。」ととてもわかりやすい答えでした。

それからは、親と一緒の生活になり、たくさんの「楽しさ」を経験することが
出来ました。
この年になってわかることは、15 年間の修行的出来事があったからこそ、言葉も文化も違うNZ の生活の中で、自分に自信を持って居られたし、NZの「楽しさ、面白さ」を体感できたと思います。



NZ の生活すべてが、楽しかったわけではなく、親から与えられた「教育」についてはいろいろ悩み考えました。
私は、シュタイナースクールに通いましたが、結局途中で辞めて普通の学校に行きました。
親はシュタイナースクールに希望を持って通わせてくれたと思います。
シュタイナーの理念や哲学、そして教育に対する考えは素晴らしいと思います。
ですが、現場を知っている1人の学生としての私の目から見ると、親の理想と実際に通う子供の現実は違うように感じました。

今の私の財産は、自分がシュタイナーに通ったことよりも、NZ に行ったことで日本の本当の良さを知ったり、日本人として生まれたことに感謝したり、日本では味わえない人生観を経験できたりしたことが何よりも自分に対する「教育」だったように思います。

そして、今は誰よりも今の自分が大好きになりましたし、今の自分を好きでいられるから、他人を認める事も出来ました。
そして何よりも自分の両親そして、兄、妹のことをすごく尊敬、信頼しています。
「家族みんな大好きですね!!」そういった当たり前な、忘れがちなことをNZ で学びました。

ですから、どんなに素晴らしい思想や教育論を持つ学校があっても最終的には一個人の思いや、やる気がなければ、ただの形だけの学校になってしまいます。

思想や教育論の勉強をするのはいいのですが、それよりも、その人にあった個性を認め、応援することが一番!それが世界にひとつだけの教育だと思います。
今思うと、私は両親から最高の教育(愛情)をもらった気がします。
わらでの15 年間の厳しい生活の中で、どんなに忙しくても、学校の長期休みには毎年2週間の家族旅行を計画し、全国あらゆる所に連れて行ってくれました。

その時に見たもの、感じたこと、食べた物はとても刺激的で、感性を育て、物事の価値判断をする基盤を作ってくれたように思います。
親が企画した旅行ほど楽しいものはありませんでした。

私は、NZ でツアーガイドの仕事を手伝っていました。
その中で、大勢のお客様に「今までにした事がない旅行でした。」「外国なのに、安心して旅行を楽しめました。」「家族の一員のように、NZ に住んでいるような気がしました。」などと言っていただけたことは、本当に嬉しかったです。

このように、NZ に来るお客様にツアーを喜んでもらい、自分の中に「他の人を喜ばす事の面白さ」を見つけることが出来ました。
私はこれまで、22 年間の人生を日本とNZ で過ごして来ました。
約7年居たNZの家は、私たち家族にとって、運命が変わった大切な場所であり、家族の団欒の場、憩いの場でした。そのNZ での生活が終わりを告げようとしています。
何か辛いものがあります。



私がNZ 行きを決めたのは、「日本の教育ではこれ以上学びはない」と思ったからです。
どの教科にも興味を持てないし、「点を取るためだけの勉強をしても実用性のないことばかりだ・・・」と思っていました。
授業も面白くないし、このままの流れで高校に行きたくはない。
だからと言って、就職には全くピン!と来なかったのです。
それよりも「自分が自分として成長したい」「個性を伸ばすための教育」を学びたいと思い、海外行きを決めました。

当時の学校の先生には「絶対無理、やめなさい。」と言われました。
私の成績は、下から数えた方が早く、先生はそのことで私を心配してくれていたからでしょう。

その中でも英語はひどい有り様でした。
先生も含め、友達みんなから猛反対を受けましたが、両親だけは、学校の成績ではなく、私自身を見て「絶対大丈夫、行って来い!」と言ってくれました。

それを聞いて一気に不安が吹き飛びました。「できるの?できないの?」ではなく「するの?しないの?」といつも聞いてくれた両親でした。
英語は苦手、成績も最低。でも、「英語を話したい!」という思いをわかってくれたのだと思います。
それと、15 歳になった私に「そろそろ自分の人生、自分で決断しなさい。」と優しく後押ししてくれたのかもしれません。
なんとかなると思ってやってきたNZ, そして語学, 現実はそんなに甘くはありませんでした。

基礎が出来ている人なら、半年で英語をマスターしてしまうのですが、私は覚えも悪く、みんなが気にしないことにつまずき、考えてしまうので、普通の人の倍以上の年数がかかってしまいました。

でも、そのおかげで英語を学ぶ人の苦労や辛さが理解できるようになりました。
そして、その情報を必要としている同じような日本人にも伝えることが出来ました。
この期間を通して、私は日本に居た時と比べものにならないくらい精神的に“ タフ” になりました。



今では、それほど英語に苦労しない程度になりましたが、家庭教師のスージーとの出会いなくしては、このNZ での7年間は語り尽くせません。

それは、私がNZ に来て2年が経った頃でした。
2年が経過したにもかかわらず、全く話せず、日本に帰ることも考えていました。
周りの友達がリタイヤして日本に帰って行く状況でしたが、「自分の中でまだ何もNZ に来た答えを見つけていないし、このままでは絶対いやだ!絶対しゃべる!しゃべりたい!!」という気持ちがいっぱいだったのです。

でも、現実にはどうすることもできない自分が居ました。
精神的にはどん底でした。
そうした時スージーに自分の気持ちを身振り、手振りで伝えたら、そっと抱きしめてくれて「もう大丈夫だよ。」と言ってくれました。
そして優しく「しゃべりたいんでしょう!そしたら、怖がらずにしゃべろうよ。」って。

気づいたら、私は彼女の胸の中で大泣きをしていました。
たぶん、それまでは英語に対して、外国人に対して、恐怖心があったんだと思います。
「こう言ったら笑われる、ああ言ったら馬鹿にされる」という思いでいっぱいでした。
それからは「間違ってもいいから、堂々と話そう! みんなに自分の気持ちを伝えたい、しゃべりたい!」と思うようになり、2 年間全くわからなかった英語をたったの3 ヶ月でマスターしてしまいました。

それはやはり、NZ に来て初めて、「1人の人間」として受け入れてもらえたからだと思います。
自分の可能性を信じてくれたスージーに本当に感謝しています。
今でも、あの時のことを思い出すと胸が熱くなります。
最後まで、強い思いを持ち続けたことで、国境を越え言葉の通じない人の心に「思い」が届いたと実感した瞬間でした。
彼女のおかげで、私はただ英語を話すだけでなく、プラス「思い」を伝えられるようになりました。



NZ の生活はいろいろなことを見たり、体験できたり、将来について考えることが出来た7年間でした。
そのひとつに、将来自分の子供を通わせたいと思える先生、アナリーに出会えたことです。
その先生の子供に対する教えを聞いて見て、惚れてしまいました!子供に「教える」のではなく「子供がどの言葉なら知っていて通じるのか」とか「子供を受け入れて接している」ことに感動しました。

私が子供だったら、ぜひ通ってみたい幼稚園ですね!!もうひとつは、食のありがたさ、大切さを再認識したことです。
親が小、中学校と給食を食べさせず、弁当を持たせた本当の意味や思いが私なりにわかりました。

NZ に来てから、しばらくの間ホームステイをしていたのですが、食生活の乱れが激しく、肌荒れはするし、体調は悪くなるしで、最悪の状態でした。
そこで親が与えてくれた食べ物が、自分のことを考えてくれていたことに気づき、涙したのを覚えています。

日本に居る時は、それが当たり前で親に感謝することができず、普通の食生活への変なあこがれがありました。
今では、外食で体調が悪くなると、親の本を読みながら、料理を作ったりします。

わらの料理はレシピ通りに作っても、親の味はなかなかでません。
でも、私にはそれがすごく美味しく、親の味との違いを楽しんでいます。
作る度に、「やっぱり、この味が一番美味しい!」って思いますね。
親の料理のすごさ、たくさんの人達に愛されている料理なんだと実感しました。
親の料理以上に、体も喜び、味覚も満足させるものを食べたことがありません。
どこに行っても、最後は親の料理に落ち着いてしまいます。



今は、修行の身ですが、日本とNZ で経験した思いや体験を生かして、3年後には近き仲間と会社を立ち上げ、食を中心とした流れで日本の農林水産業、社会、そして経済に貢献したいと思います。

会社の幅を広げていろいろなことをするのではなく、オールマイティな会社を計画しています。
ちょっと、雰囲気だけでも伝えますね。

例えば・・・お店に来るだけで、元気になる。癒されるって良くないですか?面白くないですか?飲食店だからと言って、食べ物を提供するだけではないのです!食べに来なくても、元気ない時に来るだけでも、ただトイレを使いに来るだけでも、オッケー! 不思議なことに、体調が良くなるんですよ。

面白いでしょう!。

可能なんですよ。

そういった店作りをするつもりです。
まあ、色々なアイデア、アイテムを取り入れる予定なので、楽しみにしていてくださいね。
そして、同世代、若い世代の日本人に楽しい生活を伝えたいですね。
そのためにも、まずは、私達が提供するのを受け取って元気になってもらいたい。
それから元気が日本中に広がっていけばなぁなんて思っています。

長くなりましたが、どんなに周りの人に反対されたり、敵をつくっても、私は親に「私の無限の可能性」を信じて応援してもらえるだけで、何よりも力が湧くのです。
自分を最後まで信じてくれたことに感謝しています。
私も、親から受けたことを将来の子供にもしてあげたいと思っています。
近き人にこそ、信頼と愛を与えてきた両親。
だからこそ、普通では、不可能なことも可能になってきた気がします。

お父さん、お母さん、兄、妹に心からありがとう!!
そして、今まで出会ったすべてのみんなに感謝です。
これからも宜しくです!!
ありがとうございます。

                                      船越耕太



謙雄

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ニュージーランド。
そこは既に、第二の故郷。
よく人に、「ニュージーランドどうでした?」とか、「ニュージーランドってどんな国?」と聞かれる。しかし、それは、日本に住んでいる人間に同じ質問を問いかけられるのと同じ感覚。あまりにもそこにいる自分が自然すぎて、的確に言葉で表すのが難しい。
明確な日本との違いは言葉。

はじめは、日本語だとぴったりの表現があるのに!と嘆いていたこともある。
しかし、それは次第に「英語だったら・・・」も加わっていく。
そして人。人は同じである。
もちろん、日本人とは違う感覚、常識の違い、そんなものは当たり前にあるのだ。
そんなものは、同じ日本に住むけど違う環境で育ってきた他人にも言えること。

もちろん、その国柄によって、なんとなく、日本人はこんな感じ、とか、NZ 人はこんな感じ、というのはある。
育ってきた環境が違えば価値観も違う。
当たり前だけど、つい人は忘れがちになる。
そしていつの日か、「私は日本人だから・・・、」とか、「彼は外国人だから・・・。」という理由で諦めや拒絶をしたりする。
それは同じ日本人同士で「あの人は私と違うから分かり合えない。」というのと何も変わらない気がする。

でも、それと同時に環境が違えば、他人の生活習慣や、常識ってこんなにも変わるのだと、強く再認識させられたのも事実。
よく、外に出てみて中が良く見えると言う。
NZ に来て、日本を見るとやっぱり今までと違う見方ができる。

最初にNZ に行った時はまだ16 歳で、日本という国がどういうものかさえよく分かってなかった。
それは今でも同じかもしれない。
しかし、しばらくして日本でバイトをしたり、NZ で日本人に囲まれて仕事をしたりするうちに、それぞれの違いが見えてくる。
好きなところ、嫌いなところ。

よく日本人はここがダメとか、もっと、欧米を見習えとかいうのを聞く。
たしかに、そうゆう部分もあるだろう。
NZ に行ったおかげで、日本という国を客観的に見つめることができた。
今では、日本にいながらにして、客観的に見ることができる。
違う世界を見るというのは人にとって大きな財産だと思う。



英語も全く分からない16 歳が一人で留学をスタート。
弟が2 年後に留学してきたが、住む場所は岡山と鹿児島くらい離れていた。
そして両親が来たのは留学してから4 年目。今思えば、きっと大変だったんだろうなと思うが、あまり記憶に無い。

最初、学校のみんなと打ち解けることもなくただひたすら休憩時間は外のベンチに座っていた。
途中、学校の先生から「あの子はあのまま放っておくとうつ病になる」とまで心配されたほどだ。
なぜ、そんなにも一人でいたのか。もちろん内気な性格が最大の原因ではあったと思う。

その頃、唯一の楽しみと言えばインターネットの掲示板を歩き回ったり、チャットをすることだった。
その時、ホームステイをしていたシングルマザーのホストとどうも合わず、それが更にネットへの依存を深めていった。

そんな中、誰とも話さなかった僕に話しかけて来た同級生がいた。
その子は日本で英語教師をしている兄を持ち、日本、及び日本人に好感を持っているNZ人だった。
それから仲がよくなってその時のホストファミリーの話をすると、「うちに来いよ」の一言。

そしてその同級生の家にホームステイをはじめてから、一気に生活は楽しくなっていった。
そこのホストファーザー、そしてホストマザーが異様に明るい人だった。
そして何よりおおらかだった。
なにをしても許される。
子供と言うのは不思議で縛られると反発し、逆に自由にされると嬉しい反面、自分にすこし厳しくなったりする。

そのホストでは外食をしてこようが、夜すこしくらい遅くなろうが、気にはしなかった。
ただ、必ず連絡は入れること。
別にうるさく言われた記憶もないが、自由な分、それだけは絶対に守ってきた。

その頃には既に留学して2 年ほど経過していたが、学校での会話が皆無だったせいで英語はさっぱり。
しかしそんなことお構い無しに喋り捲るホストだった。
そして、言葉なんか分からなくたって、楽しそうなのは分かる。
そして、何の話をしているかもなんとなく分かるのだ。
そして、同級生には姉が二人いた。
そのうちの一人もまさにあの両親から生まれてきたであろう、活発で饒舌なひとだった。

ある夜中、その頃もネットで夜遅くまで起きていたら、突然コツンと音がする、窓に石が当たっているようだ。
僕の部屋は2階だったので、窓からのぞくと下で「鍵あけて!」とその姉が小さく叫んでいた。もう、いい年なので夜遊びくらい普通なのだが、鍵を開けた僕にまったく悪びれもなく「ありがと!ホント今日は散々だったわ!」とにこやかに捲くし立てるその人の姿は何故か今でも忘れない。

忘れないことと言えば、そこのホストマザーはいつも目玉焼きを焦がして、フライパンの底をガリガリやっていた。
そしてホストファーザーは体と声のとても大きな人だった。
子供みたいなところがあり、大画面のテレビを買った日、製氷機付きの冷蔵庫を買った日、新しいゲームを買った日、「おい、謙雄、みてくれよ!これ、すごいだろ!」と何度も僕に見せるその笑顔は大好きだった。

ホストが息子を訪ねて以前日本に行った時、軽い交通事故があり、なんと日本語も分からないのにいきなり交通整理を始めたのも、このホストファーザーだった。

僕にとってNZ での恩人と言う人がいるなら、間違いなくこのホストファミリーだろう。
もちろん他にも数え切れない人たちが支えてきてくれたのは忘れない。
しかし、今、NZ に戻って一番に会いたいのは残してきた親友を除いてはこのホストの両親だろう。
なぜか、行くたびに「ちょうどね、あなたの話を最近してたところだったのよ!」という、毎回だ。



その後両親が来て生活のリズムは一転するも、既にそのホストのおかげで学校にも慣れ、台湾の留学生に恋をし、失恋し、曲がりなりにも楽しい高校生活をギリギリ終えた。

もともと勉強をしない性格だったので日本と同様、学校での提出物は酷い有様だったが、なんとか卒業証書は頂いた。
今でも自分の最終学歴は中卒で通しているが。

その後、専門学校に入学し、半年で追い出される。
理由はまたもや、恋に落ち、失恋。
自分にとっては最優先事項だったので、両親への感謝も踏み倒して恋に没頭。
あの頃の自分を今思い出すと、すごく安心する。
バカみたいにまっすぐに走っていたから。

その後、バイト先の友達の紹介で知り合った、オランダ人とタイ人の二人と仲がよくなり、一緒に住み始める。
男3人でずっと行動をともにしてきた。
唯一仕事のときだけがプライベートな時間と言えるぐらいだった。
喧嘩もしたし、誰かに彼女ができると後の二人だけで出かけることが多くなったり。
それでも何故か最後は同じ場所に落ち着くといった感じだった。 

そのうち、一人はタイに帰り、もう一人は日本へ。
僕だけがNZ に残る形でバラバラに。
今ではオランダ人の方がNZ に戻り、昔3人でいた家にまた戻って生活をしている。
NZ にいる親友と言えば、そのオランダ人になる。

両親がNZ に来てからも、大体1年に1回は日本に帰っていたが、ある年、父が面白い仕事がある、バイトしてみないか?と言う話が出て、東京で3ヶ月ほどバイト。



その後NZ に戻り、前のバイト先の友達の知り合いが新しく店をオープンするに当たって人を探しているとのこと。
鉄板の上で料理が出来れば良いとの条件だったので断る理由もなくバイトを開始。

そこからだ、また新しい幕が開けたのは。
そのお店のオーナーのイメージは、鉄板の上で料理したものをお客様に食べてもらう。
たったそれだけだった。それ以外何もないのだ。もちろん、鉄板はあったが・・・・。
メニューもない、だから、レシピなんて当然ない。
たまたま日本食の食材の卸業者を知っていたのと、前のバイト先が鉄板焼き屋だったのがせめてもの救いだった。
といっても、前のバイト先では基本的に、鉄板に乗っければ後は炒めるだけと言う感じにシステム化がなされていた。
でも、鉄板に乗っける材料は? ソースは? 業者からはお好み焼きのソースしか手に入らない。
それ以前に、お好み焼きの分量は?? もちろん、実家に帰っても、鉄板焼きメニューのレシピなんて皆無だ。うちは自然食だぞ?

そして更に慌てたのは、初めてお店の中に入ったのが店がオープンするたったの3 日前!その3日前に店に入ってからというものずっと、両親に電
話をかけ続ける毎日だった。
なにせ、必要なレシピの本を買おうにもそんなものは本屋には置いてないのだから。
ああ、両親が料理人でこんなに頼りになると思ったことはなかった。
とはいえ、両親も鉄板焼きメニューのレシピなんか持ち合わせてないので、父親の方も、たぶん、それで近い味になるんじゃない?みたいな感じだった。

もともとこの手の料理を食べなれてないから、自分でも???だった。
しかし、3日後に店
はオープンしたのだ。
その日の記憶は。嵐が来たとしか記憶してない。
自分でなにをやっているかさっぱりなのに、お客様にこれなに?と聞かれても答えられるわけないじゃないか・・・。
既成のソースや調味料。
使った事もないから中に何が入ってるかさっぱり?でした。
あの時、初めて「だしの素」の威力を知った。
鰹節に干ししいたけに昆布にとめんどくさいことしかやったことがなかった僕にとって、それはまさに「魔法の粉」だった。とにかく、全ての調味料に感動していた。

なにこれ??粉を水に入れるだけでダシ汁ができた!!とか。
味噌にダシが既に入っていて、お湯に溶かせば味噌汁になる!!とか、まー、普通であれば至極当たり前のことに感動していた毎日だった。
そして、その時まだ20歳だった僕だが、何故か店長に。
というか、他にいなかったというのが事実でもある。

それから、少しずつ仕事にも慣れだした頃、それまでいたスタッフが辞めていくことに気付く。
もともと、僕以外はワーキングホリデービザで働いていた日本人。
原則3ヶ月しか同じ場所で働けないのだ。
人事、調理、買い出しと、お金の管理以外は全て僕の仕事になっていた。もちろん働く周りのスタッフは僕よりかなり年上が多かった。

そこで気付く。あ、日本にいたときもそうだった。
うちには常に研修生がいた。
新人の研修生に色々、指図する生意気な小学生時代がよみがえる。
おかげで、年上の人間と働くことにそんなに違和感を感じずに過ごせた。

2年ほどそこで働き、スタッフとも喧嘩をし、オーナーとも喧嘩をし、色々あったが、店はそれなりに繁盛していった。
その頃、自分の中で何かが足りないことに気付く。もちろん、積み重ねてきた経験がないのが一番。これ以上、なにをやっていいのか分からなくなっていた。
そこで夜は自分が大好きなレストランで皿洗いのバイトを始めることにした。
オーナーには嫌がられたが、きっと他を見ることで自分の店の足りない部分が見えるだろうと。

それは的中した。他の店で他のオーナーが店を廻す姿をみるとやはり全然違うのだ。良し悪しではなく。
それからの生活は昼は店長。
夜は下っ端の皿洗いだった。
立場的には正反対な状況を一日で味わうのだから、それはすごい刺激になった。
自分が皿洗いをしていて、もっとこうだったらいいのに、と思える部分をそのまま自分の店に活用。
そして自分の店でうまく行っていて、そのレストランでうまく行ってない部分が見えたり、すこし意見を述べたり。
もちろん、一日の労働時間はかなり長いものになったがすこしも苦にならなかった。
昼の仕事を追えた時間で一旦、自分の中で一日が終わっていた。
そして、夜の仕事はまた新しい一日だった。

そうやっているうちに、両親が日本で、ある仕事を頼みたいと申し出てきた。
最初は、今の仕事が楽しかったのでやらないと断った。
しかし、もちろん惹かれる部分もあった。
ただ、今の仕事をやめてまでする仕事か?と自分に問い詰めたとき、やはり違う気がした。

しかし、もうひとつの事実。
その店長をやっているお店でいまひとつ満足できない部分があった。
それは僕が雇われ店長であって、オーナーでないこと。
お金をだす、ださないではそこに天と地ほどの差が生まれるのは重々感じていた。
そして、オーナーの目指すものと、僕が目指すものにズレが生じていたのもあった。
だったら、自分でお金を貯めて自分の店を出せばいい、簡単なことだ。
それで、まず足がかりとして、今の仕事に就いた。
どんな仕事も全て全力でぶつかっていけば楽しいから。

さぁ、これからどこ行こう?
人生はとりあえず飛び込んでみれば何とかなるものだと実感させてもらったのはNZ に来たおかげだ。
そんな体験をさせてくれた両親。
そして、今までの自分を支えてくれた人たちに感謝。
これからどんどんグローバル化が進む中、自分にとっての日本、そしてNZ。さらには世界にとっての日本。
それらを見つめつつ、そして自分には何ができるのか?何がしたいのか? それを日々の生活の中で頭に置きながら生きて行きたいと思う。

                                       船越謙雄


編集後記

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- 編集後記-

わら通信from New Zealand も、ちょうど10号で完結。
6年もの間、ご愛読ありがとうございました。
今回は家族全員のメッセージも、初めて加わりました。
いかがでしたでしょうか。
日本に帰国してからは、まず次ページの通り営業させていただいた後、2007 年夏か秋、新生わらが誕生いたします。
一日2組だけのお客様と、私たち夫婦が、ともにゆったりとした食事と時間を共有できるちいさな宿と、重ね煮をより深く、よりきめの細かい料理教室ができるキッチンスタジオを新設いたします。
ドームハウスは裏山に移築し、気功、瞑想、上映会など、多目的ホールとして再生します。
もちろん今までのわらは、宿泊型のセミナーハウスとして生まれ変わります。乞うご期待。

船越康弘


前回の9 号でこのわら通信の編集を引き継いだばかりだが、既に最終号。
今回は日本にいながらNZ と連絡を取りつつ、何とか完成しました。
弟は静岡、僕は岡山、両親と妹がNZ。
だけど、こうやってみんなの原稿が一つになっていく姿を編集しながら間近で見れるのは面白い。
こうやって、地球のあちこちにいても連絡の取り合えるインターネットの力、便利さにつくづく驚愕。
素人の編集、レイアウト作業で見づらいところもあると思いますが、これで最後です。
今までわら通信を読んでくれた方々、ありがとうございました。
船越家はまた新たなスタートです。これからもどうぞよろしくお願いします。

船越謙雄







楽しんでいます、2足のわらじ

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楽しんでいます、2足のわらじ

■NZ の衣食住■
憧れの海外生活が始まって早、丸5 年が過ぎました。
5 年経ってやっとNZ の生活そのものをゆったりと味わえるようになりました。
6年目を迎えた私達のNZ ライフをご紹介します。

" まずは私達の家から "

今、私達夫婦の寝室兼書斎でこの原稿を書いています。
この部屋は北側(NZ では北向きが日当たりがよい)が大きなガラス窓になっていて180 度の視界で緑一色の牧場とポプラ並木が広がっています。
そしてその緑の右手後ろに大聖堂の先端を含むクライストチャーチ市内の街並みとカンタベリー平野が望めます。
そのはるか向こうには雪化粧をしたアルプス山脈が広がっています。
あまりに眺めが良いので机に向かう時間よりもボーっと外の景色を眺めている時間の方がついつい長くなってしまいます。

朝は空気が澄んでいるのでこの広大な緑と山の景色がより身近に感じられ、毎朝さわやかな目覚めを迎えることが出来ます。
夜は刺激の強すぎるネオンサインの代わりに街燈がシンプルでほっとする夜景を楽しませてくれます。
晴れた日には満天の夜空に南十字星も見えます。
毎晩その夜空を眺めながら眠りについています。もちろん、子供達の部屋やお客さまの部屋からも同じ眺めが楽しめます。

この家は3 年半前(永住権収得後)に150 軒以上もの売り家を辛抱強く3 ヶ月かけて見て歩き探し当てました。
その甲斐あって住めば住むほど良さを感じ、家族全員が快適に暮らしています。
敷地の広さは約450 坪、家の床面積は100 坪。家は玄関を入ると吹き抜けになっていて、すぐ右手にゆったりとした広さのリビング、続いてダイニング二つ、キッチンとなっています。
ダイニングのひとつはお客様専用に屋根も壁もすべてガラス張りにして朝はサザンアルプス、夜は街燈の夜景を楽しみながら食事をしていただいています。

玄関を入ってすぐ左にオフィス、まっすぐ進むと左側にランドリー、トイレ、バスルーム、そして右側と突き当たりにはお客様の部屋があります。
2階は私達夫婦と子供達の寝室と、バス、トイレがあります。
キッチンとダイニングもガラス張りなので外の美しい景色を見ながら料理し食事をとることが出来ます。
また1 階のどの部屋からもウッドデッキに出られるような設計になっているためすごく便利です。
この家は日当たりも良く、晴れてさえいれば、寒い冬でもほとんど暖房は必要ありません。





道路から車庫までのエントランスはバドミントンができる広さで、車庫はバンの車3 台が入り、その中で時々、家族やお客様と卓球をしています。
雨の日などには大工仕事をするためのワークショップにもなり、すでに客室ベッド8 台、コーヒーテーブル3 台、そして鏡台1 台を作りました。初めの頃は丸ノコとドリルだけで棚を作ったりドアの修理をしたりする程度だったのですが、もともと大工仕事が好きだったのと必要に迫られ、今では大工道具も増え、ちょっとしたクラフト工房のようになっています。

我が家は丘の上にあるため敷地は3 段に分かれていてその中段に家があり、上段、下段には庭が配置され、家の周りを取り囲むようにたくさんの木や花が植えられています。
裏にはダンプカー1杯の堆肥を入れて作った自家菜園があります。
今その菜園でゴボウ、水菜、春菊、レタス、ニラ等を栽培しています。
玄関前には八重桜が植えられ、毎年きれいに咲いて春を告げてくれます。
桜が終わるとその下段にあるツツジとシャクナゲ、続いてリンゴの花が咲きます。
最下段には常緑樹に囲まれた広めの芝生のスペース、そこにはナンテン、シャガ、そしてバラと続き四季を通して花を楽しめます。
バラの隣にはヤシの木に似た原産のキャベツツリーという木を配したプールがあります。
中段にはバーベキューエリアと花壇があり、年に2回ラベンダーを中心にパンジー、マーガレット、そしてベゴニア等が植えてあり年中花を欠かすことはありません。
花壇の手入れはかおりの仕事で、毎日楽しそうに水やりをしています。

少し上に行きますと東屋があります。
そこからの眺めは私の一番のお気に入りです。
晴れた日には東屋のベンチに腰を下ろし、遠くを眺めたり、その横の芝生で仰向けに寝そべって風に吹かれながら空を仰ぎ見て青空との一体感を楽しんだりしています。
東屋の裏手には一年間のジャムを与えてくれるモモの木とアプリコットの木があり、その木々の間でしいたけを栽培しています。

私達の家はクライストチャーチ市内から程よく離れた郊外にあり、治安も良く開放的で過ごしやすい場所に建っています。
これだけの条件の家にもかかわらず日本では考えられない値段の上、さほど難しい審査もなく銀行から30 年ローンが組めたので、今ここで暮らすに至っています。

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" 次に食について "

5 年前、NZ に来たばかりの頃は各国料理を食べ歩いていたのですが、すぐに飽きてしまい外食はせいぜい月に一度になっています。
行き着くのはご飯と味噌汁、やっぱり食事は飽きないこと。

NZ で料理をする時、困ったことは野菜の種類が少ないこと、そして旬の味が少ないことでした。
そのことでメニューの幅も狭くなり、NZ に来たばかりの頃はなかなかおいしい料理を作れませんでした。

NZ は空気も水も土も日本よりもきれいなのにどうしておいしく料理できないのだろうと悩みました。
それを確かめたくて日本に帰国した時、いつも野菜を買っていた地元の青空市に行って、採りたての新鮮な野菜の前に立ちはっきりと分かったのです。
日本の野菜はお百姓さんから何回も声をかけてもらい手間隙かけてもらっているのです。

とにかく収穫までの間、お百姓さんが野菜に接する機会がNZ に比べ圧倒的に多いことに気づきました。
他にもたくさんの原因はあるかもしれませんが、今まであまり気にも留めなかったことに気が付いたのは大きな収穫でした。
これは日本と西洋の自然に対する文化的な違いが大きく関わっているような気がします。

西洋ではまず、神(GOD)がいて、神に選ばれた人間が自然と対峙する。
日本人は草木にも石にも森にも山にも自然そのものに神が宿り八や およろず百万の神という思想から自然に対して感謝と畏敬の念をもって接する態度を無意識に持っていてそのことが農作物にも影響していることに気が付きました。

それからNZ での料理の味が大きく変わりました。
もともと健康な土地で育った素直で野性味あふれる野菜たちですから愛情をこめて声をかけてあげればおいしさを与えてくれるのです。
まず野菜に「ありがとうございます」と感謝を表し、次に「野菜の中に物語を見る」ように心がけています。
今日、縁があって私が料理させていただくこの野菜は大地の上で太陽を浴び、風に吹かれ、雨に潤わされ、多くの人の手を渡りながらたくさんのエネルギーを受けて今、私の元に届けられました。

こんなことを思うだけで大きく味が変わります。
それから毎日おいしく、楽しく、ありがたく料理をすることが出来るようになり、お客様にもとても喜んでもらえるNZ 独自の新しいメニューが生まれました。

これらの気付きにより日本での料理も大きく進化し、それだけでもNZ に来た甲斐がありました。
野菜とのつき合い方さえ分かればもうこっちのものです。
今までは日本であまり食べなかった野菜もいろいろアレンジして楽しんでいます。

たとえば赤ピーマン、黄ピーマン。こちらのピーマンは癖が少なく甘みが強いのでいろいろな料理の色付けにぴったり。
またオリーブオイルを塗ってオーブンで焼いたあと八方だしと混ぜてスープにするのですが、一見ミスマッチのように思える鰹だしとピーマン、これが絶妙のハーモニーを生み出してくれます。
グリーンピースは生でも食べられるくらい甘いので、ミキサーにかけ八方だしと塩だけの味付けをし、くずでとろみをつけていただきます。
和風味なのにポタージュスープのような食感と味が楽しめるとお客様にも大好評。



次はアボカド。このアボカドは私よりも娘の藍のほうが大好物になっています。
日本にいた頃は食べたこともなかったのですが、アボカドもNZ が産地ということもあり日本と比べると格安。
安い時だと1個30円くらい。森のバターと呼ばれるアボカドはそのままパンに塗ってもよし、サラダにしてもよし、魚と和えてもとてもよい前菜になります。
我が家の一番人気はアボカドを半分に切って種を抜き、穴に醤油をたらしてスプーンですくって食べるという至ってシンプル、だけど相性抜群の病み付きになる食べ方です。



NZ の魚介類もおいしく、アラなどの白身魚やサーモンは言うに及ばず、最近はよくナマコを食べます。
初めて魚屋さんで見つけたときは目を疑いましたがこのナマコ、韓国のお百姓さんが作る聖護院大根と相性ぴったりでその上値段も3本で$1(約80円)と経済的。

安くてうまい魚といえばハモ。
ハモは日本では高級魚ですがNZ では需要が低いためかキロ$4(約320円)。
1キロもあれば家族全員でハモ鍋をしても食べ切れません。
使い切れなかったハモはハモサラダに。
これもいろいろ試作してできたヒット作ですが、骨切りして一口大に切ったハモを湯通しして水を切り、スイートバジルに載せて梅肉でいただくサラダ。
ハモの旨みとバジルの香り、そして梅肉のさわやかさのコンビネーションで口の中に驚きの味が生まれました。


海の幸で忘れてはならないのが岩のり。
岩のりも日本では高級食材ですがNZ では岩にたくさん張り付いているのに誰も見向きもしません。
今年は9月の大潮の日に家族とかおりの親戚みんなで岩のり採りに出かけました。
岩の上一面にびっしり張り付いているので、1時間もすれば両手に抱えきれないくらいの岩のりが採れます。
それを水洗いして天日干しにします。
その間、家の中は潮の香りに包まれます。岩のりを佃煮や味噌汁の具にしたり、オーブンで軽く焼いてふりかけにしたりと天然の岩のりを我が家では常備菜としてふんだんに味わっています。
今年は採り過ぎたので日本に持ち帰り、わらの営業時に皆さんにも味わっていただこうと思っています。


わら通信Vol.1でアサリのことを書きましたが、アサリよりももっと簡単、そして大量に採れる貝がムール貝。
これも岩場のある海岸に行けば岩肌がまったく見えないほどびっしりと岩に張り付いています。
とうもろこしの実をとるように一つとれば次々と簡単にはがれ、5分もあればバケツ一杯すぐに採れます。
ムール貝はワイン蒸しが一般的ですが、我が家ではニンニクと鷹の爪を入れて湯がきます。
味付けはナンプラー(魚醤)を少々。貝が口を開いたら最後にチャイブを振りかけて出来上がり。
シンプルだけどムール貝を食べるならこれが最高と、長男・謙雄のお気に入りです。



そして最後に忘れてはならないのがNZといえば羊。 そうそうラム肉です。
我が家は基本的には菜食なのでわざわざ肉を買ってきてまで食べることはありませんでしたが、元家庭教師のスージーの家でバーベキューに招かれた時初めて食べたオーガニック・ラムの肩肉の味わい深さにびっくり!ラム肉ってこんなにおいしかったんだと叫びたくなるほどでした。
こんなおいしいものお客さんに黙っていられない!もちろんわらに来るお客さんはたいていベジタリアンですが、「もし興味があればラム肉もお出しできますよ」と声をかけるとほとんどの方が「わら」さんが勧めるものなら食べてみようか、そしてどこかで無理してがんばって菜食を続けてきた緊張を旅先での開放感が手伝ってかもしれませんが、「ぜひ食べてみたい!」と言われ、そのおいしさを本当に喜んでいただいています。

普通のラム肉でもNZ では配合飼料ではなく牧草しか食べてないのでおいしいのですが、オーガニックのラムは格別の旨みがありまさに絶品です。
NZ に来られたらぜひご賞味ください。

ちなみに我が家でこのラム肉に一番ハマっているのはかおりです。
平素、肉は食べないかおりですがラムは特別のようでお客様にお出しする際、焼具合を見るために余分に焼いたラムをおいしいと言って喜んで食べています。



こんなことを書くと私達がNZ に来て毎日ご馳走ばかり食べていると思われるでしょう。
でもおいしいものはたまに食べるからおいしいし感謝も増すものです。
我が家も毎日の食事はご飯と味噌汁を中心にした一汁一菜に落ち着いています。

今夜のメニューはご飯にゴマ塩、味噌汁、ゴボウの金平、アラメの煮物、すべて重ね煮です。
あとは常備菜である岩のりの佃煮、昆布としいたけの佃煮、ニラの佃煮、大根・人参・セロリ・ズッキーニの糠漬け。

NZ に住みながら毎日の食卓は日本にいたときより日本らしい食卓かもしれません。
そして、たまに食べる海の幸とラム肉の食事のおい
しいこと!。5年目にして無理なく、おいしく・楽しく・ありがたい食生活が出
来るようになり幸せを感じています。


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" 衣類について "

衣についてはNZ では所得が少ないことも関係していますが、国民性として物を大切にするという習慣が根付いていて衣類専門のセカンドハンド(古着)のお店が街中にたくさんあります。

中でも私達がよく買うのがセーター類です。
さすがに羊毛の国なので質の良いウール100%の手編みのセーターが安価な物だと$2(約160円)で数多く売られています。

又、毎週日曜日に開かれるフリーマーケットでは山積みにされた古着を自分でスーパーのビニール袋いっぱいに入るだけ詰めて、$5で買えます。
まさに文字通り掘り出し物を見つけ出す、それを楽しみによく古着を買いに行きます。
NZ でのセーターやジャケット類はほとんどここで間に合っています。
かおりは気に入ったものを見つけ出しては丁寧に洗濯して、リフォームを楽しんでいます。



夢追い人でありつづけたい

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夢追い人でありつづけたい

私達の生活は日本に比べれば収入が安定していませんが、自分達の使うベッドやテーブルを作り、岩のりを採りに行き$2の服をリフォームして着る。
ゆったりした時間の流れの中で生きること、生活そのものを楽しむことが出来るようになり、今、この時をしっかりと味わって暮らしています。

この緩やかなNZ の生活を支えるために、年に2回日本へ出稼ぎ帰国して、日本での仕事も楽しんでいます。
1 回の帰国で、講演や料理教室が全国で30 0 40 ヶ所、みなさんにはハードなスケジュールと思えるかもしれませんが、旅好きの私にとってこんな楽しいことはありません。
しかも、常にかおりも一緒なので夫婦旅行しているようなものです。

懐かしい顔や初めての人との新たな出逢い、エキサイティングな毎日の連続です。

今年の初夏の帰国では北海道から宮古島まで日本中、講演の旅をさせていただきました。
しかも今回は私達の日程と合わせて子供達も北海道に集合して、8 年ぶりの北海道家族旅行を楽しみました。

講演の旅のもう一つの楽しみは、地元に住んでいる主催者の方がおすすめのレストランやカフェ、宿に案内してくださるので、これまた食いしん坊の私には、こたえられない楽しみです。
いつか、実際に食べて、泊まって、本当に感動したおすすめのレストランと宿のガイドブックも作ってみたいと思っています。



今こうしてNZ と日本の二重生活をほんとうに心の底から楽しんでいます。
しかし一方で、もうそろそろこの生活を手放す時期が来ているのかなとフッとそんな考えがよぎることがあります。
今のこの生活に満足しているし、幸せを感じていますが、執着心はほとんどありません。

20 歳のとき、桜沢如一氏の「自由に生きる」という言葉に魅了され、自由を追い求めてきました。
個としての自分を磨き、自由に生きることに夢中になっていました。
そのため、周囲に流されまいと努力し、頑張って自分の意志で決めることに集中してきました。

しかし、そういう努力は、どこか無理もあったように思います。
いつも、正義・常識・善悪・分別等を基準とし、また、どこかにいい人に見られたいという自分がいたように思います。
岐路に立つたび、眉間にしわを寄せ険しい顔で「何が正義なのか」という判断に集中しました。

当然笑顔が消えていました。
NZ に来るまで「社会を変える」とか「世の中を良くする」という明確な意志を持ち、良くする対象として、社会を考えてきました。
それはどこかで自分を犠牲にするということを自分自身に強いてきたし、又、それがある種の快感でもありました。

そんな時、中野裕弓さんから「まずは自分から」という言葉をいただきました。
そして、「人を自分の正義感や常識で裁かない、すべてを受け入れることで人は幸せになれる」という言葉もストンと腑に落ちました。
NZ に来てからは「成り行きに任せて生きる」「流れに身を任せる」という方向に生き方を変えるように意識してみました。

そのことによって人生はよりダイナミックに楽しい方向へ向かったように思います。
自由を目指すことをやめたら、自由を手放したらもっと大きな自由が感じられるようになりました。

NZ に来て、いろんなトラブルがありましたが、感謝と笑顔を絶やさなければ、どんな苛酷な状況も好転することも実体験として学ぶことができました。
そんな私の心の変化の有様や現実の出来事による喜怒哀楽すべてを、多感な時期の三人の子供たちと共有出来たことがNZ に来て得ることのできた最高のことのように思います。
だからNZ の5 年間に悔いはないとキッパリと思えるのです。

ある時、私の最も信頼する友人が私の為に木の精霊からメッセージを受け取ってくれました。
「小さな瞳を輝かせた少年が自分の夢の実現を目指して、全力を傾け、駆け抜けてきたように思います。
その瞳の輝きは今もいささかの衰えも見せず、自分の役割をさらに深く理解し始めています。

けれど大いなる形を現実のものとするためには手に入れたものを手放して、手元には沢山の思い出と大きな幸福感だけに留めることがより高いあなたの繋がりのために必要であると感じています。
どうか志を高く大きく新たな目標を掲げて光を見ていただけると嬉しいです。

落ち着くということと一時休むということは似て非なるものです」この世に木の精霊が存在するのかどうかは問題ではなく、まさに今、私にとって必要なメッセージでした。私がNZ で積み上げてきた生活があまりにも快適だったのでいつしかそれに執着し、こだわっていた私の心情を見抜かれていたようでした。

この執着を手放せた時、日本での新たな夢と目標が具体的に現れてくるようになりました。
これから少しずつ重心を日本の生活に移行してみようと思っていますが、引続き縁のある人で、まだまだ私達のNZ での暮らしを必要としてくださる方がいっぱいいて、又、私達もその方達と時間を共有したいと思っていますので、もうしばらくは成り行きに任せて二重生活を楽しんでみようと思っています。

わらNZ に来られる方のほとんどは、ハイライトだけを忙しく見てまわる物見遊山のパックツアーではなく自分捜しの旅として来てくださいます。
ですから、行き帰りの飛行機だけが決まっていて、NZ 国内のスケジュールはすべて白紙という方が少なくありません。
ほとんどの方が大なり小なり、人生のターニングポイントになったとおっしゃってくださいます。
宿の亭主としては、宿屋冥利に尽きます。
新たなる夢と目標は、場所を日本のわらに移してNZ でのおもてなしを日本でも継続していきたい、安心して未来に夢のある暮らしの提案ができる小さな宿を新たに作りたい。

これからじっくり時間をかけて準備を始めていく予定です。いつの日かみなさんと小さな宿わらで語り明かしましょう!


第7回 ニュージーランド人物列伝

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第7回 ニュージーランド人物列伝

■早坂ファミリー・温さん 泉さん めぐりちゃん しずりちゃん■



私達は約二年前の9月、子供達と共に伸び伸びと暮らしたいと思い、家族四人でニュージーランドに来ました。
こちらではドライバーズガイドの職を見つけ、この会社からのジョブオファーで二年間有効のワークパーミットを確保しました。
永住権獲得までの期限は、この二年間です。

それからは忙しい中にも、この街で落ち着いて生活する事を目指して張りのある日々を過ごし、娘達も近くのシュタイナースクールの幼稚園に通い始めました。
この間、永住の為の一番の難関である英語の試験もクリアーすることができ、また、移民局の求めるポイントも上回りましたので、今年1月の末に、ようやく一次申請に漕ぎ着けました。
自己申請のポイントが移民局に認められるかどうか不安でしたが、何とかパスをし、さてこれからが本申請です。

ここで重要視されるのは、こちらの会社のジョブオファー(雇用証明)ですが、私は既にこちらで働いているので問題はありません。
4月初めには全ての証明書類が揃い、あとは会社のオーナーから改めてジョブオファーのサインをもらうだけです。

ところがここで突然、新たな契約書を突きつけられました。
永住権を得た以後3年間は会社を辞めてはいけない。
その後2年間は関連業種に就いてもいけない、といった内容で、これに応じなければジョブオファーにサインしないと言うのです。こういう条件は、ここで働き始める前に言って欲しかった。
半年ほど前に父親に癌が見つかっていた事もあり、どうすればいいか夫婦で悩みました。
取り敢えず契約書にサインし、永住権を取得してから対応策を考えようかとも思いましたが、どちらにせよ揉めるのは避けられませんし、そういう形で自分の人生を作っていくのは嫌でした。

考え抜いた挙句、やはりこの契約書には同意できませんでした。
遠回りですが、これから別の仕事を見つければ又、申請はできますし、同業種であれば、一次申請の期限切れの5月30日までは、即、本申請に入れます。

ところがオーナーの逆回答が遅かった為、それまであと僅か3週間しかありません。
そこで慌てて旅行業関係のツテを全て当たりました。
けれどもジョブオファーをもらうというのは、当然ながら難しい事でしたし、オーナーはワークパーミットが期限内である事を楯に辞めさせてくれませんでしたので、それもネックになりました。
「引き抜き」と見られるからです。

一方その頃、周りの知人が何人も本申請をして、短期間で許可が下りていました。
どうやら今は最大のチャンスらしい。
このタイミングを逃すと、後になればなるほど大変です。
パーミットの失効は12月5日。ここに滞在できるのは、あと約半年です。
タイムリミットはどんどん迫って来ますが、未だに、どこからも色よい返事はもらえません。

そんなこんなの時、たまたま船越さんが我が家に来て、お話しを伺う時間が持てました。
そして、今だからこそ落ち込まず、明るく楽しく生きようと考え直しました。
自分の都合で人を恨んで悪い波動を出していては、どんな事をしてみても良い波動に同調できる訳はありません。
更に中野裕弓さんの「夢を実現する方法」を紹介されました。
6ヶ月と期日を決めた明確な夢を紙に描きます。
日常の中で、それをしっかりと意識し、常に前向きにしていれば、いつか必ず光は見えるはずです。

そうこうするうちに申請の期限切れまで一週間を切りました。
もう同業種による一次申請免除は諦めざるを得ません。
そこで開き直りました。
更に遠回りになるけれど、自分のやりたい仕事を探そう。
条件は厳しくなるけれど、逃げていたら始まらない。
時間はかかっても正面からぶつかってみよう。

そこで今度はシュタイナーの農場、福祉農場、さらには一般の農業関係などの門を叩き、拙い英語で何とか思いを伝えようとしました。
是非、この健やかな地で子供達を育てたい事、人の健康や命に関わる仕事に積極的に携わりたい事、等々。どこでも、それなりに耳を傾けてはくれましたが、それでも中々いい結果は得られませんでした。
ほんの僅かな糸でも辿って、考え得る限りの所に当たりましたが、当たっては跳ね返され、当たっては跳ね返される毎日でした。

ついに5月30日、期限切れの夕刻。
あとはワークパーミットが切れる日までの持久戦かな、などと、娘達を風呂に入れながら考えていた時、電話が鳴りました。
その時なぜかふと、オークランドのイギリス人の友人の顔が浮かび、「彼がどこからかジョブオファーでも持って来てくれないかなぁ0」などと湯船の中で考えていました。

風呂から上がって妻に聞いてみると、正に、その彼からの電話で、しかも最近、自分で会社を興したらしいとの事。
なんだそりゃあ?そこで、コールバックして詳しく話を聞いてみると・・・。実は、彼と知り合ったのは私達がまだ日本にいた時、私が企画した船越さんの講演会が縁でした。

そして私達に遅れること約一年、彼ら一家もまたNZ に来たのです。
イギリス人ですから永住権も容易に取れ、以前からやりたいと思っていた、ニュージーランドの良質なハーブ、レメデイー、ホメオパシー、オーガニック製品、衣料、玩具などのナチュラルな物を、ウェブサイトで日本に紹介、販売する会社を始めたのだそうです。
そして、日本での宣伝や市場を獲得するパートナーとして、私に、その会社に参加してくれないかと言う依頼でした。
しかも彼は、数日後には日本に戻り、来年までは帰って来ないと言うではありませんか。

そこで翌日急遽、彼のいるオークランドへ飛んで、詳しい話しをし、強力なサポートを約束してもらいました。
ただ、なにぶんにも新しい会社ですから、移民局がどう見るか不安です。
そこでコンサルタントに尋ねると、雇用主がどれほどの熱意で移民局に当たってくれるかが一番重要だそうで、「いいですね0。前のより、よっぽどいいんじゃないですか0」との好感触です。
かなり明るい展望が開けてきました。

こうして8月初めに改めて一次の申請、これを僅か1週間足らずでパスしました。
そこで、必要書類を再び作り直し、9月、ようやく念願の本申請に辿り着きました。
これから提出した書類の審査が始まり、それに通常306ヶ月かかります。
あとは、ただひたすら結果を待つだけです。

ところが何と!申請してから僅か4日で「申請受諾」の通知が来たのです!
余りにも早過ぎるのでコンサルタントに確認したら、どうやら間違いないらしい。
彼も呆れていました。こちらも、この数ヶ月がとても長く感じられていたので、どうも実感が湧きません。
嬉しいというより、とにかくホッとしました。
これでNZ を追い出されずに済みます。

父親の癌も奇跡的に良い方へ向かっているそうですし、ずいぶんと遠回りをしたようで、実は、結果的には一番理想的な形に落ち着いたようです。
ここに至る為に今までのできごと全てが必要だったのかと、改めて納得しました。

あのどん底の時、一枚の紙に描いた夢が、6ヶ月以内に全て実現してしまいました。
移民局からの通知を見ると、永住権発行が正式に受理された日は、私達が2年前、初めてニュージーランドに降り立った日と同じ日付でした。


行ってきました!ニュージーランド

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行ってきました!ニュージーランド
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● K・W さん
長兄の謙雄さん、毎日のガイド本当にありがとう。お蔭様でクライストチャーチの街を迷うことも困ることもなく観光することが出来ました。
昼食もいろんな所で食べられて楽しかった。
“WARA” での毎日の食事は芸術的な盛り付けと体が喜び感動する味で、本当にすばらしかったです。
そして、藍ちゃんの手作りデザートも本当に素晴らしかった。
ごちそう様でした。言葉では表現しつくせない感謝の気持ちでいっぱいです。
“WARA” でいただいた元気パワーで、日本へ帰ってまた頑張れそうです。本当にありがとうございました。

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● S・M さん
何から何まで本当にお世話になりました!! 船越ファミリー万歳!! 夢のような、家族にとって最良の一週間でした。
クライストチャーチやクイーンズタウンの町は、きれいで穏やかで、緑が美しく、毎日元気をもらうことができました。
そして何よりも毎日の食事がおいしかったこと!! 大げさでなく、生まれて今まで最高のお料理をいただくことができ、幸せです。ありがとうございました。
私は妻や子供に支えられてなんとか父親をやっていますが、船越さんから船越家のありのままの歴史をうかがうことができ私も自分を好きになることからまずは始めてみようと思います。

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● Y・M さん
初めての海外旅行がニュージーランドで、しかも、WARA で、とても幸せな夢のような毎日でした。
船越ファミリーの暖かさ…。
涙が出そなくらいやさしさが伝わり、家族とは何なのかというのをあらためて考えさせられました。
船越さん家族を目標にして、毎日楽しく暮らして行きたいと思います。
本当に来てよかったです。
やりたい事はどんどんチャレンジしていきたいと思います。
どうもありがとうございました。

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● I・M さん 12 才
家に帰ったらすぐに写真をひきのばして机にかざりたいです。(みんなで写った写真)
9 月になって学校が始まったら、ニュージーランドのことを全部話したいと思います。
藍姉さん、デザートおいしかったです。この“WARA” の旅行が夏休み一番の思い出になりました。
こんなに帰るのがさみしいのは初めてかもしれません。
今度は、1ヶ月、1年、10 年とまりたいです。
ありがとうございました。

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● K・M さん
オーストラリアで1W 滞在してから、WARA に来ました。
なれない海外旅行でオーストラリアでくたくたに疲れてしまい「もう帰ろうか?」と真剣に考えていました。…でも来てよかった。
お料理をいただく前から、なんか全員がほっとしたところがあり、「WARA」にいてたら大丈夫と感じていました。
もちろんお料理は最高!食べたらまた元気がもどってきて、日本にいるような体調です。
私は料理人ではないので、とてもお料理は真似できませんが「WARA」の持っている暖かいほっとさせる場の雰囲気、力というものを勉強させていただいたので、今後の行き方の参考にしていきます。
まず家族が楽しく、おいしく、その延長上にお客様へのおもてなしがあるんです」と言う言葉も頭に残っています。

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● C・M さん
船越さんの講演を聴いてから一度、お料理を食べてみたいと思っていました。
こんなに早く実現できて、夢のようでした。
4 年ほど前から大阪の正食協会でお料理を教えていただきマクロビオティックを徐々に実践してきましたが、頭で分かっていることと、体が一致せず、迷うこともあり、何が良いのかわからなくなっていました。
WARA さんのお料理を頂き、気持ちが楽になった気がします。
旅行に出発する前は、毎日のご飯作りがイヤでしたが、早くお料理がしたくなりました。ありがとうございました。

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● E・F さん
心と体にしみるおいしいお料理とおもてなし、ありがとうございました。
楽しく食べ楽しく生きることが何よりの子育てのアドバイスなんだと教えていただきました。
人生の悩み、迷いをすべて熱心に聞いて頂き、これからの生き方に光が見えてきました。
船越ファミリーとWARA のお料理を独占できる幸せをかみしめた6 日間でした。
皆様に出会えた幸運を感謝して日本へ帰ります。ありがとうございました。




編集後記

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- 編集後記-

今年の最高に嬉しいできごとは、早坂さん一家とわらNZ の研修生でもあった藤原さんのお二人が夢を求めてNZ に来られ、2 年がかりで難関を突破して永住権を取られたことです。
2 人から連絡を受けたときは途中の苦労を知っているだけに我がことのように嬉しくて、飛び上がって喜びました。

特に早坂さんの困難は並大抵ではありませんでした。
私の人生に幾度となく夢と希望を与えてくれた中野裕弓さん、今回も早坂さんの夢を実現させる原動力になった本をみなさんにもご紹介します。
「幸福はデザインできる」とっても簡単な方法ですが効果抜群!なんせ永住権まで取れてしまうのですから。
今年の年末年始のわらの営業は親子生活体験合宿あり、船越康弘三昧セミナーでは料理、手当て、気功に加えてこの「夢を実現する方法」もお伝えします。
そして、それをもっと詳細に具体的に導くための方法=「戦略マップ」作りもわたしの友人でこの本の著書である澤根哲郎氏自ら伝授してくださいます。
乞うご期待。今年も家族5 人でみなさんのお越しをお待ちしています。




続けています、家族旅行

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続けています、家族旅行

長男が9歳、次男が7歳 長女が4歳の時、わらの家族旅行が始まりました。
14年間、家族全員が健康で続けてこれたことに感謝しています。
わらでは旅行を軸に、年中行事が行われていました。
春は花見、夏は海と山、秋は紅葉狩り、冬はスキーに温泉、お正月にはかおりの実家、和歌山へ里帰り。特に夏は、毎年2週間の長期旅行をしていました。

わらをお盆まで営業し、残りの8月いっぱいを旅行に充てていたのです。
去年は北海道、今年は九州、来年は東北というように、1年ごとに的を絞って行き先を決め、観光のみならずその地方の生活や文化も十分味わえるようにプランを組みました。
まず1月に行き先と大まかなコースを決め、次に一般のガイドブックにはあまり頼らず、地図に描いたコース上にあるすべての市町村の観光課に手紙を書きます。

大体毎年708都道府県と50060市町村。各課が発行する観光パンフレットをすべて送ってもらうと、総量にして毎年ダンボール2箱分になります。

それを宿泊施設、見どころ、特産物、文化財、遊園地など、項目別にわけておきます。
そして、その資料を家族全員でわいわい言いながら、海で泳ぎたい、温泉がいい、山に登りたい、ゴーカートに乗りたい、おいしいものが食べたい、などなど、数ヶ月かかって全日程の旅行プランを作り上げるのです。
家族5人の好みややりたいことがそれぞれに違うので、調整は大変でしたが、旅行中もさることながら、この期間が格別の楽しみの一つでもありました。

私たちの旅行は暮らすように旅するという考え方から、自炊を基本にしていましたので、いつもキッチン付きのコテージを利用しました。
地元の人たちが利用する公設市場に出かけ、その土地独特の野菜や魚、惣菜や加工品を買い求め、市場のおばちゃんに料理法を教えてもらい、夕食にはそれを作って食べるという旅行を続けていました。

移動手段はワンボックスの愛車ハイエース。(現在13年目、そして24万キロですが、NZでも現役で大活躍です。)
後ろのドアを開けると、ひと目でどこに何が入っているか分かるように、透明の引き出し衣装ケースを横に4列、縦に4段、合計16個を積み上げます。
中にはガスコンロはもちろん、鍋は3種類、フライパンに中華なべ、包丁、まな板、ボール、ザルなどの調理道具一式と、塩、味噌、醤油、油、酢、酒、みりん、といったあらゆる調味料、そして半月分のお米も満載しました。
そして、着替え、水着、タオル、お菓子、バトミントンなどの遊具、救急箱などなど、調理から洗濯、そして遊ぶことまで、あらゆる状況にすぐ対応できるよう、引き出しごとにコンパクトに整理していました。

キャンプ場など、屋外での調理も多く、周りの旅行者がカレーやバーベキューというメニューの中、私たちはその日に市場で買った新鮮な素材で本格的なてんぷら、煮物、すしなどを作っていたので、いつも注目の的でした。
もちろん自炊だけではなく、ここぞというおいしそうな料理屋をピックアップしておいて、食べ歩きも欠かせない楽しみの一つでした。

長男が、NZに留学するまでの10年間をかけて、日本中のすべての都道府県を旅して回りました。
いずれは海外で暮らしたいという思いもあったので、海外に出る前に日本中を回ってみたかったし、子供たちにも見せておきたかったのです。

「百聞は一見にしかず」知識より体験、人間の豊かさや幅の広さは、体験を通して身についたものを、どれだけ多く持っているかということだと思いま
す。
私は、日本中を旅することで、子供たちに目に見えない豊かさを身につけてやりたいと思っていました。
そして何より私たち親が、子供たちとの時間を思いっきり楽しみたかった。
それが毎年続けているエネルギーの源でしょう。

長男9歳、次男7歳、長女4歳の夏休みは、親にとっても子供にとっても、一生に一度の夏休みです。
また今度、はないのです。
よく知人から、半月も休みがとれるのは自営業だから、そんな家族旅行ができるんだと言われました。
しかし民宿にとって、夏休みを2週間休むということは2か月分の売り上げを失うことになるわけですから、大変な決断でした。
その上、お客様からは「民宿が夏休みに夏休みをとるなんて……」とよくお叱りをうけました。
でも私は、お客様に心地よさと満足を提供するためには、まず私たちが幸せで、人生を楽しんでいることが先決だと考えました。

伊藤真愚先生は「幸福とはリフレッシュなり」とおっしゃっていました。
旅行はリフレッシュには最適の方法です。
私たちはこの夏の旅行を中心に、どんなに忙しくても四季折々の旅行を欠かしたことはありません。
それはNZに来てからも続いていて、この4年の間にNZのほぼ全域を旅して回りました。
そして、去年は夢にまで見た南太平洋のサモア。
そして今年は、グレートバリアリーフにシュノーケリングに行きました。
来年からは、ヨーロッパを10年かけて回ってみようと思っています。

皆さんは、『私には時間もお金もないからできない』そんなこと思っていませんか? 
お金と時間は作るもの、そして誰にでも作れるものだと思います。
その人に、そうしたいという思いがあるかどうかだけです。
お金を稼いでから旅に出よう…では間に合いません。
まず自分が幸せになること、そうすればその人に必要なだけのお金はついてきます。

お金を稼いでお金持ちになったら幸せになれると思っていませんか?
私の経験からすると、楽しいことや幸せが先で、お金は後からついてくるものだと思います。
人になんと言われようが、どんな扱いを受けようが、どんな状況であろうが、その状況を楽しめるというのが幸せになれる能力だと思います。
成功とか自己実現というのは、お金持ちになることや、大きな家に住んでたくさんの財産や資産を持つということではなく、今ある状況を幸せと思えるかどうかだと思うのです。
そして幸せとは、決して多くのモノをもつことではないはずです。
『あるがままをありがたいと思うわが心の豊かさ』私は家族旅行という行事を通して、世の中の常識や善悪の判断基準とは無関係に、私の行動を子供たちが共感してくれようが反感を持とうが、親が一人の人間として明確な生き方を示すことができればと思っています。

物が溢れ、経済至上主義の現状では、物やお金や権威が介在した人間関係しか結べなくなっています。
本当に大切なことは「モノより思い出」だと思いませんか? 私は子供たちに形あるものを残せませんが「自分の生き方が子供たちへのプレゼントだ」と信じています。













新しいステージに新しい出会い

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新しいステージに新しい出会い

今年はなんと私の憧れの人、中野裕弓さんとジョイントの講演会をさせていただく機会を得ました。
中野さんとジョイントできたら面白いだろうな…というイメージは何となくあったのですが、やはりイメージすれば実現するものなのですね。

4年前、NZ行きをあきらめなければならないような状況に追い込まれたとき、「どうなるのかではなく、どうしたいかということでしょう!」「状況がどうあれ、行きたいのなら行ったら!」と背中を押してくれたのは、中野さんだったのです。
あの一言がなければ、今のNZ の生活はなかったかもしれません。
そのきっかけを作ってくれた中野さんとジョイントできるなんて、本当に天にも昇る気持ちでした。
その上、その日の夜は小田原のホテルのバーで、夜遅くまで語り明かすという至福の時間を持つことができました。
また、今年の12月には、新潟で真弓定夫先生とのジョイント講演が決まっています。

真弓先生は、人生の先輩として私が最も敬愛する一人であり、私の目標でもあります。
先生は目には見えないところで奥深い実践をされています。
だから、先生の著書もお話も説得力があるのだと思うのです。
私も人にものを伝える立場の人間として、先生の生き方から教えていただいたものがたくさんあります。
言っていることと、していることとの差をどれくらい縮められるか。
そして、自分が理解し、実行したことしか伝わらない。この二つのことをいつも肝に銘じてきました。
私にとって、先生とジョイントさせていただけるなんて、こんな幸せなこ
はありません。

2000年4月、日本を離れ、NZという新しいステージに立ったことで、今までの生き方から脱皮できたように思います。
と同時に、脱皮したことで新しいステージにも上がれたように感じています。
そして、その新しいステージにはたくさんの出会いが用意されていました。

NZに来て4年。
距離、時間、物理的には遠く離れたにもかかわらず、夢のような出会いが次々に待っていました。
よき出会いは必ずある。
まともに生きていると、こんなに楽しい世の中はないというのが今の実感です。

「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬の早すぎず、一瞬遅すぎない時に…。」 森信三

「面白がって生きていると面白がっている人に出会う」 平井雷太





幸せは食にあり、食は幸せなり

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幸せは食にあり、食は幸せなり

これが現時点での私のテーマです。
食を通して幸せに豊かに生きる。
これこそが、私が20年前百姓屋敷わらを始めた動機です。

具体的に心がけてきたこと、それは、まず食べ物に感謝すること、そして自分自身と家族の健康と幸せでした。
この基本があったからこそ、現在のこのNZの生活があるのだと、つくづくありがたく感謝しています。

わら通信もこれで8号目となりました。
書くことが大の苦手な私にとって、これは大変な作業でした。
何度もやめようと思ったのですが、NZに来るときに推薦状を書いて励まして下さった方々への返謝として、最低3年間は…という思いが、私に続ける力をくれたのでした。
しかしこの通信のおかげで帰国時には講演依頼が入り、その講演を聞いて下さった方や、わら通信の読者がNZのわらツアーにも参加して下さり、さらに、わらNZ へ来られた方が、日本へ帰って講演会を主催して下さるという好循環が出来上がりました。

すでに延べ500人以上の方々がわらNZを訪れて下さいました。
私が講演で「こんな楽しそうな私に会いに、NZに来たくなったでしょう。
安心してください、今こうしたいという思いを持っただけで、その思いは既に50%叶っています。
あとの50%は、今あるしがらみを捨てるだけです。」なんてことを言うと、その言葉に触発されて来られる方が多いのには私もびっくりしています。

「単なる物見遊山の海外旅行ではなく、人生の転機になった」「船越さんだからできた、ではなく、私にもできた」という、うれしい感想をたくさんいただきました。

わら通信のテーマも“合言葉は「ついてるね」” “人生イメージどおり” “感謝に勝る能力なし” “夢は実現する 夢は夢を呼ぶ” “成り行きに任せて生きる” など、実際の私の経験と行動を書いてきました。
また、講演でも「自分自身と食を大切にしましょう」ということを基本に「大好きなことをして豊かに幸せに生きよう、迷ったら迷わず楽しい方へ行こう」というお話をさせていただいてきました。

今、私の周りや縁ある人たちの中に、少しずつですが確実にこの流れが起こっています。
この先もっともっと大きな流れになる予感がして、今からワクワクしています。

今回、初めて講演録を出版させていただくことになりました。
今でこそ脳天気な私も、過去には火事にあったり、子供が大病をしたり、生活用水道を止められたりと、苦労や試練の重なる時期がありました。
それなりに頑張ってきたと自負していますが、夢や希望があったから頑張れたと思います。
そして今は、起こったすべてのことに感謝できるようになり、それらを楽しい思い出に変えることができました。
過去は自分の思い方次第でいくらでも変えられるというのが今の実感です。

「食べ物を変えると運命が変わる」このことに出会って25年、「頑張る」から
「楽しむ」へ。
まずは自分から、そういう考え方にシフトしながら、今ここニュージーランドで大好きなことをして、幸せに豊かに暮らせるようになりました。
そのエッセンスを本にまとめてみました。
長男が出来上がった原稿を読んで「お父さんの話は隙だらけでまとまりがなく荒削りだよな、でもこれが今のお父さんの立っている場所だし、そのまんまでまっすぐな感じが出てて、これはこれでいいんじゃない」という感想を一言ポロリと言ってくれました。

私としては読者の皆さんのつらさを楽しさに変えることができたら、ほんの少しだけ楽になれたら、楽しくなれたら、元気になることができたら…そして良いことが皆さんの上に無限に起きますようにと願いながら、本を作らせていただきました。
私の新刊書「わらのお話」どうぞよろしくおねがいいたします。


第6回ニュージーランド人物列伝

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第6回ニュージーランド人物列伝

--スティーブン・プロクター、スージー・ハーバーストックご夫妻--




今までのわら通信にも、何度も登場しているお二人を、改めてご紹介いたします。
私たち家族のNZでの生活は、この二人なしでは語れません。

彼らとの最初の出会いは、藍の語学学校でした。
スージーはそこでたまたま臨時教員として2週間だけ教えていたのですが、偶然にも藍のクラスの担任だったのです。
私たちはNZ入国以前にシュタイナースクールと交渉し、入学許可を取り付けていたのですが、いざ申請をすると、突然以前にはなかった入学条件の変更を言い渡され、入学不可となってしまったのです。
相談する人もなく困っていたところ、藍から担任のスージーが以前シュタイナースクールの教師をしていたことを聞きました。
何の面識もないスージーに、わらにもすがる思いで相談したところ、すぐさま快く協力を申し出てくれました。

しかも私たちが相談に行った日は、スージーが語学学校を辞めるまさにその日で、帰り際の彼女と、語学学校の玄関で会うことができたのでした。
もし1分私たちが遅ければ、この出会いはありませんでした。

後日、指定された日にスージーの家に行ってみると、既に何人かのシュタイナースクール関係者が集まり、相談が始まっていて、藍の入学許可のためにレターを書いたり電話をかけたりして、まるで自分の子供のことのようにしてくれました。
しかも押し付けがましさも気負いもなく、日本から来てくれたあなたたちのお手伝いができてとてもうれしいし、これからのお付き合いを楽しみにしていますと、心からの笑顔で私たちを受け入れてくれました。
おかげで翌日には入学許可が下り、藍はめでたく二人の兄と共にシュタイナースクールに通えるようになったのです。

その上スージーは私たちの英語力を見かねて、家族全員の英語の個人レッスンも格安で引き受けてくれました。
英語が苦手で学校にも馴染めなかった耕太を特に気遣ってくれて、学校の参観日には英語のできない私たちに代わって保護者として出席してくれたり、私たちといると日本語漬けになってしまうので、学校の休み期間中は無償で耕太のホームステイを受け入れたりしてくれました。

ポリテクという学校に代わってからは、英語の論文やスピーチがある時にはいつも個人指導をしてくれました。
ですから耕太自身も、「もしスージーがいなかったら僕はNZで暮らすことができなかっただろう」といつも言っています。
そして何よりスージーからもらった最大のプレゼントは、永住権取得に不可欠なIELTS(アイエルツ)という英語のテストで家族全員を合格に導いてくれたことです。
テストのために6ヶ月間の集中レッスンをしてくれたのですが、この間は私たちも勉強しましたが、レッスンの為の予習、添削にかかる時間と手間、そして精神的プレッシャーを考えれば、彼女は私たち以上のエネルギーを使ってくれたと思います。

それ以外にもわらNZの事業立ち上げ、それに必要な税理士との交渉、家を購入の際の法的手続き、弁護士との交渉、家の改築、保険、ホームドクターの紹介、私の歯痛の時も歯科医院に通訳で同行してくれ、痛がる私を診療台の横で励ましてくれました。

また、日常的なことでいえば、草刈機の使い方や、バーゲン情報、そしておいしいレストラン情報、近所とのトラブルの解決までしてくれました。
英語教師というよりはNZライフアドバイザー兼、ライフコンサルタントのような存在です。

このスージーとの出会いは、もし神様がいるとしたら、私たちのためにこの出会いを用意してくれたとしか考えられないようで、まるで私たち家族がNZに来ることを待っていてくれたように思えるのです。

スージーはドイツ生まれ、南アフリカ育ちのドイツ人で、NZに来る前はルフ
トハンザの客室乗務員として世界中を回っていたそうです。
しかしNZに来るうち、暮らすのであればこの国しかないと感じ、15年前にクライストチャーチに移住しました。
その後、シュタイナースクールの教師時代にスティーブンと出会い、結婚。現在3人の男の子の母親です。

スティーブンはクライストチャーチシュタイナースクール創立時のメンバーの一人で、20年間先生を続けたあと、大工をしていました。
もちろんわらNZの改築はすべてスティーブンの仕事です。
改装期間はトータルで6ヶ月の期間を要したので、その間私は大工の下手間として手伝いをさせてもらいながら、シュタイナーの教育学や哲学について、知識としてではなく、どのように生活に生かすかという実践論を多く学ぶことができました。

私がNZへ来た最大の目的は、子供たちを通わせながらシュタイナー教育を学ぶこととシュタイナー農法を学ぶことでした。
なんとスティーブンは、NZのシュタイナー農法のパイオニアであるピーター・プロクター氏の長男だったのです。
その上私たちがNZに来た年に、スティーブンは農地を購入し、まさに1からオリーブ農園を創設しようとしていた時期だったのです。
その土地は畑ではなく牧草地だったところを開墾し、私はシュタイナー農法による開墾から土作り、オリーブの定植等を1から実践を通して体験できるチャンスを与えられました。

このスティーブンとの出会いも、偶然とはいえ身震いする思いでした。
スティーブンと知り合って数ヶ月したとき、その農場に建てたばかりの小屋と納屋、その中に置いてあった資材すべてを焼失するという事件が起きました。
スティーブンは軽い怪我程度で大事には至りませんでしたが、スージーはショックで放心状態になり、しばらくは何もできませんでした。

農場はクライストチャーチから200kmも離れていて、小さな子供連れではスージーは様子を見に行くこともできず、ただ心配するばかりでした。
そこで私と耕太と日本から来ていた青年3人ですぐに農場へ駆けつけました。
無残に焼け落ちた小屋の前に立つスティーブンに、何といって声をかけようかと思っているとスティーブンはニコニコと満面の笑みを浮かべ、やけどの傷跡が生々しく残る大きな手で握手してくるのです。
私がスティーブンの顔を覗き込むように「大丈夫か?気をしっかり持って」と言いかけたら
「康弘、心配することは何一つないよ。見てみろ、あの山を、そしてあの海を、そこにちゃんと今までと同じようにあるじゃないか。そして今私はここに生きている。これ以上何も必要なものはない。その上、康弘が今こうして手伝いに来てくれている。こんな幸せなことはない。」
何の気負いもなく、心の底からの正直な言葉に私はただただ圧倒され、言葉を失いました。

まさに「南無」や「受容」の世界を感じたのでした。
私はこの感動をツアーの人々にも感じて欲しくて、何度もオリーブ農場に日本からのお客様をお連れしました。
その中には、NZに来てスティーブンに出会えたことが一番の収穫だったと言って下さった方もいました。

こうして私たち家族はスティーブン、スージー夫妻に支えられ、2000年の4月から今までの4年間暮らすことができました。
そして、私たちが何とか自立したことを見届けたかのように、今年7 月、二人は3 人の小さな子供たちをつれて、クライストチャーチでの安定した生活をすべて捨て、200km離れた農場へと引っ越していきました。

農場には電気も水道も電話もなく、本当に100年前の開拓者のような生活なのですが、「やりたいことをやりたいときにする」二人合わせてもうすぐ100歳になる夫婦の、意気揚々とした新しい人生の旅立ちに、私も大いに勇気をもらいました。
オリーブの木はまだ小さく、売れる実になるにはあと数年かかりそうだし、それまで現金収入のめどもないようです。

私の中でまた新しい夢のイメージがわいてきました。
何年か後には、愛に満ちたスティーブンオリーブ農園のオリーブオイルが出来上がり、日本の皆さんにもお届けできる日が来ることでしょう。乞うご期待。

今この4年間を振り返り、ただただスティーブン、スージー夫妻との出会いに感謝です。


NEW ZEALAND フォト便り

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●編集後記

日本のわらも新しいステージへ。

私の実姉・戸練夫妻が3年間わらを預かってくれることになりました。
二人は私にとって、小川先生に教えを受けた重ね煮の兄弟子にあたる人であり、食の道を教えてくれた恩人でもあります。
私の食の原点である戸練夫妻の営むわらへもぜひお越しください。

私自身も今年は本の出版、座禅断食の野口法蔵師、船戸クリニックの船戸ご夫妻、渡辺和子先生との初対面など、運命的な出来事がたくさんありました。
なかでも5年ぶりの中野裕弓さんとの再会と、そのセミナーへの初参加、そして中野裕弓さんに導かれるように参加した本田健さんのセミナー。
このふたつは私にとって、食の桜沢如一氏との出会い以上のものになりました。
この出会いは私の中で消化され、形となって少しずつ現れ、これからの私の人生の大きな指針になりそうです。
このことも、またいつかどこかで、皆さんとお会いしてお話できればと思っています。



今ニュージーランドは春爛漫

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今ニュージーランドは春爛漫

私たち家族がNZに来て、四度目の春を迎えることが出来ました。
NZの春はまず牧場からやってきます。
私の住んでいるクライストチャーチは周りのほとんどが牧場で、この時期ベビーラッシュを迎えると、羊の数は一気に倍に膨れ上がります。

のんびりと草を食べている母親の周りを、生まれたばかりの仔羊が無邪気に跳ね回ったり、両膝をついて母親の下にもぐりこみ、ミルクを飲んだり、寝そべって日向ぼっこをしている姿をたくさん見ることが出来ます。

市内のエイヴォン川やハグレーパークではカルガモの雛がかえり、あちこちで母親に連れられたよちよち歩きの子ガモを見ることが出来ます。

よく晴れた日にエイヴォン川でカヌー遊びをすると、人なつっこいカルガモは手の平のパンくずを直接つつきに来ます。
そのうちガーガーという声とともに、いつのまにかカヌーが要になって、扇状に広がったカルガモの大集団が出来上がります。

餌のパンが無くなると今までの騒ぎがウソのように静まり返り、川面に映る芝生の緑にふと川岸を見上げると、真っ白に敷き詰められたようなスズランが咲き誇り、その先には見渡す限り黄色い水仙の群生地。
点々とそびえ立つ樫の巨木。
そしてその向こうには数百メートルにも及ぶ見事なソメイヨシノの桜並木。
時を忘れて川の流れに身を任せ、春を思いっきり味わう……NZの春は、私たちにこんな幸せなひと時をプレゼントしてくれます。

NZは日本ほど旬の野菜が豊富ではないのですが、アスパラとグリーンピースが食卓に春を運んでくれます。
そして忘れてならないのが白魚です。
まさかNZに来て白魚を食べることが出来るなんて夢にも思っていなかったので、魚屋の店先で見つけたときは、思わず声を上げてしまいました。
それ以来、毎年この時期になると必ず白魚を買ってきて、天ぷらや卵とじを楽しみます。

NZではバターで炒めたりホワイトソースで食べたりするようですが、味の淡白な白魚はかつおでとる八方だしとの相性が最高!ふわっととろけるような触感と、固まりかけた卵の絶妙なハーモニー。
そしてその上から散らした三つ葉の色と香り。
日本人でよかったと感じる瞬間です。
ちなみに三つ葉は我が家の自家菜園で作っています。
日本の「わら」で使っていた野生の三つ葉には及びませんが、十分に春を感じさせてくれます。


人との出会いが人生をつくる

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人との出会いが人生をつくる

四年前、言葉はもちろん、右も左も分からぬまま始めたNZの生活が、こんなにも充実したものになるとは予想もしませんでした。
まず、私たちがNZで暮らす間、岡山の「わら」を安心して任せられる、山崎夫妻との出会い。

NZで生きる術を、何から何まで無償でお手伝いしてくれ中野さん。
又、こちらでゼロから生活を立ち上げていく時、ほとんど全てに関するアドバイスと援助をしてくれ、英語の先生というより、NZのライフコンサルタントとしてのスージーの存在。
多くの人の縁に恵まれて、今の私たち家族の存在があります。

思えばNZに来て1年もしないうちに直面することとなった課題、それはここでの経済基盤を作らねばならないということでした。
もちろん英語の話せない外国人に職は無く、預金も底を尽き始めた時、一度もお会いしたことのない九州の二人の女性から、講演依頼の電話が入ったのでした。
旅費等、多少の不安はあったものの、いつものように何とかなる、成り行きに任せればいい、と二つ返事で承諾させていただきました。
すると時を同じくして同様の電話が千葉からも新潟からも入り、あっという間に私の「帰国講演ツアー」が成立してしまいました。
それからは講演のおかげで「わらNZツアー」にも予約が入り、NZに来て下さったお客様が帰国後、講演を企画して下さる。
そしてまた、講演会を聞いて下さった方が「わらNZ」に来て下さるという好循環が生まれ、気がつくとNZでの経済基盤が出来ていました。

特に今年は、私の講演テープだけを聴いてNZまで来て下さるお客様まで現れ、今では英語のレッスンを受ける時間も無いほどうれしい悲鳴です。
その上、忙しい時には絶妙のタイミングで研修生まで来てくれるようになりました。
「わらNZ」では一組のお客様が4 泊も5泊もされる上、ガイドも私たち家族がさせていただくので皆様ともすっかり親しくなり、このことは我が家の子供たちにとってもかけがえのない経験となっています。

子育て真っ最中の主婦、農家、会社の経営者、教師、医師、治療師、銀行員、料理人、エンジニア、マスコミ関係者、デザイナー等々あらゆる職業や年齢の方とお話させていただくなかで、その人たちの苦労話から裏話、そして仕事に対する誇りや情熱、夢、現実の厳しさなど、生の声を聞かせていただけることは、私たちにとって何より貴重な学びの場となっています。

まさに商売は家族の学校です。
その上「日本に帰ったときには是非泊まりにいらっしゃい」と声をかけて下さる方も多く、今や日本中に親戚が出来たような感じです。
おかげさまで、講演ツアーは各地で皆さんの温かいお出迎えを受け、おいしい郷土料理や温泉を堪能することができ、実りある出会いと再会に溢れていました。

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今年最初の記念すべき出会いは、あの名店「カハラ」で、森さんの料理を食べさせていただいたことです。
一昨年の末、オーナーシェフ森さんご夫婦が岡山の「わら」に宿泊して下さったことがご縁で、なんと今回私たち家族は「カハラ」に招待していただいたのです。
私にとって「カハラ」の存在は特別なものでした。
電話をいただいた時には、もう恐縮するやら嬉しいやら、子供たちに話すと躍り上がって大喜び。
私が何年も前から折に触れ「カハラ」の話をしていたので、いつの間にか、子供たちにとっても「カハラ」の料理は憧れの的になっていたのでした。
私自身、ほとんど何の修行もせず料理をしていたものですから、食べて食べて食べ歩いて養った舌の感性で、どのジャンルにも属さない独自の世界を創り上げた森さんは、私の最も憧れる存在になっていました。
それはまさに「カハラ」の料理、森料理という名で、日本中の食通や料理人を納得させてしまうものでした。

高級料理店やバーが軒を連ねる、おおよそ家族連れには不釣り合いな場所、大阪北新地。
その通りに面して立つビルの二階に、今年33年目を迎えたカウンター8席だけの店、「カハラ」があります。
食べ歩きの大好きな私たちですが、さすがにこんな一流店は初めての経験です。
後ろをついてくる子供たちの緊張が伝わってくるほどで、ドアに手をかけたときには、何百人の前で話をしてもあがらない私までもが、汗びっしょりになっていました。

ドアを開けると、待ち構えていたかのように「いらっしゃいませ、お待ち申し上げておりました」森さんが、心の底から笑顔で迎えて下さいました。
店の中に一歩足を踏み入れると、今度は快感にも似た緊張が走りました。

まず目に入ったのは、塵一つ無い、磨き上げられた鏡のような鉄板に、分厚い木製のカウンター、革張りの椅子に同じく磨き上げられた床。
そしてカウンターの背後にある棚には、漆塗りのワインクーラーに骨董の器、バカラのワイングラス。店全体が私たちを迎えるため、準備万端整えて「お待ちしておりました」と言っているようでした。
清潔という二文字はまさにこの店のためにあると感じさせられました。
しかし決して押しつけがましくなく華美でもなく、お茶席のように隅々まで配慮が行き渡り、とても居心地のよい凛とした空気が流れていました。
特に鉄板には、32年間の森さんの深い想いが染み込んでいるのでしょう、輝きと共にオーラさえ感じました。
それはちょうど何年か前に訪れた蔵で、何代にもわたって最高のたまりを造り続けている、味噌樽が放つ雰囲気に似ていました。

料理は前菜5 皿、スープ、ステーキ、ごはん、デザート2品にチャイという構成の、完全にお任せのコース。
料理のおいしさはもちろんのこと、厳選された食材、その組み合わせと配合のバランスが作り出す絶妙のハーモニー、そして料理と器の相性、彩り、想像をはるかに超えた調理法。
料理において目先だけで驚かせるのは簡単ですが、本質を踏まえて創作するということは並大抵のことではありません。
あらゆるジャンルの長所をさりげなく取り入れ、その上しっかりとした技術の裏づけのある料理。
そして何より、一つ一つの料理に注ぐ愛情の深さ。
自然の恵みを本当に理解し、感謝の心のある人でなければ出来ない料理だと感じました。
そして忘れられないのが、メインとも言える「ステーキミルフィーユ」。
森さんが最もおいしいステーキの形として考え出したもので、5層になった薄切り肉のステーキを、輝くばかりの鉄板で焼いてくれます。
それを合わせ醤油と下ろしたての山葵やポン酢に大根おろし、そして黒七味でいただくのです。
ステーキを焼く時、鉄と鉄が触れ合う際の不快音をなくすため、ヘラは特注の木製のものを使い、優しく丁寧に、しかし絶妙のタイミングで食せるように焼いてくれます。
なんといってもこの時の森さんの姿がすばらしいのです。
まるでお客さんが目の前にいることを忘れたかのように素材と向き合い、語り合い、まるで母親がわが子を愛しむように丁寧に料理をするのです。
私はあの森さんが印象的で忘れられません。
この日まで娘の藍は2年間完全菜食を通していたのですが、一言「今日は解禁日」。

「お客様に対するサービスは料理だけではありません。
清潔な環境、酒、器。まだまだやっていきたい事はたくさんあります。
3年後にまた来て下さい。もっといい料理を出します。」

親しみと温もりを持って静かに語る森さんの言葉に、料理人としての厳しさと謙虚さ、日々精進を怠らない決意と責任、そして誠実さを感じました。
帰りには森さん自らが拭き漆をしたコースターのお土産まで頂き、まさに森さんの世界に陶酔した2時間半でした。
店を出たあと、私たちは普段なら食した料理についてああだこうだと賑やかなのに、この日はただ目を合わせてニンマリするだけでした。
私は外に出てビルとビルの間を見上げ、スーッと自分が無くなって夜空に吸い込まれるような感覚を味わいました。

しばらくこの感覚が続いたあと、「ベストを尽くせ、しかも一流たるべし」という言葉が頭に浮かんだのでした。
コース料理2万2千円という値段は誰でも手が届くものではありません。
しかし、あえてお勧めします。
まだ行かれたことのない方、是非一度森さんの料理を召し上がってください。
人によって感じるものは違うでしょうが、森さんの料理の中にある愛、希望、勇気、元気、夢、何かを感じることが出来るはずです。
私が感じたものは言葉ではうまく表せませんが、あえて言うなら無限の無のようなものでしょうか。
店を始めて32年、食材、器との出会いも数多く経験されてきた森さんが、生涯最も大切にされているのが人との出会い。
私から今はただ一言、森さんありがとうございます。

カハラ:〒530-0002
大阪市北区曽根崎新地1-9-2 岸本ビル2F
Tel. 06-6345-6778
営業時間/17:00022:00(ラストオーダー)
要予約

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次なる出会いは、ホロトロピッククラブ発足に参加させていただいたことで
す。
人間の意識は成長、進化する方向性を備えており、人生において起こるあらゆる出来事は全て(病気、事故等の災難も含めて)意識の進化、成長のために起こった事と捉え、それらに対して建設的に取り組むための、具体的な手段や方法論をネットワークしていこうとするクラブです。
以下、このクラブのニュースレター(創刊号)に寄稿させていただいたものをここに転載します。

「ホロトロピッククラブのスタートからご縁を頂き感謝しています。
病弱だった私が元気になったのは27年前、二十歳のときマクロバイオティックという食生活法に出会ったからです。
それまで体力、知力共に劣等生だった私にとって、マクロバイオティックの創始者、桜沢如一氏の「食べ物を変えると運命が変わる」という言葉は救いの神でした。
玄米と味噌汁、そして季節の野菜を食べるだけで、健康も人生も思い通りになるというのですから、これなら私にも出来ると確信しました。
因数分解が出来なくても英語の単語を覚えることが出来なくても、こんな簡単なことで運命が変わるのならばと、玄米食を始めました。

3ヶ月もたたない間に私はかつて経験したことも無いような爽快感を味わえるまでになりました。
その後、結婚し3人の子供にも恵まれ、3人とも7歳までは厳格な穀物菜食をしたおかげで、中学を卒業するまで虫歯はありませんでしたし、予防注射も一切受けることなく健康に育ってくれました。
そして自然食の民宿をするようになると全国から重症のアトピーを抱えた子供たちのお母さんが訪れるようになり、気がつくと食事指導と子育てのアドバイザーをしていました。

しかし、たくさんのアトピーの子供たちにアドバイスをするうち、食事だけでは解決できない子もたくさん出てきました。
中には、玄米を食べることで、症状が悪化してしまう子供が何人も出てきたのです。
食事指導の限界を思い知らされた私は、食事だけでなく、呼吸法、操体法、気功などの運動療法や、毎日楽しく感謝して食事をしているか、家の中を明るく保てるように心がけているか、お父さんとお母さんが子供の前で喧嘩をしていないかなど、食・心・動の3方向からバランスよく生活面全体のアドバイスが出来るようになってからは、治癒率がぐんと上がるようになりました。

食事中心の指導をしていたころは病気を悪と捉え、その原因として、悪いもの、間違ったものを食べたからであるという単純な見方をしていました。
だから正しい食事をしなければならない、というふうに全てを善悪で判断し、病気という現実を否定することからスタートしていたことに気がつきました。
世の中に善悪は存在しない、今起こっていることが全て必要・必然で最善のことである、と気がついたときに、最良の方向が見出せることを、多くのアトピーの親子が教えてくれました。

マクロバイオティックを盲信する人たちは自分たちの食べ方を「正食」といい、それ以外の食べ方を「邪食」と切り捨ててしまいます。
確かに食は健康に大きな影響を及ぼしますが、これしかないという教条主義に陥ったとき、体は健康になっても、最も大切な精神が不健康になってしまうのではないでしょうか。
それは食事療法のみならず、医学、運動療法、精神療法、化学療法とあらゆる治療法や理論体系も、これこそ唯一最良の療法だと信じ込んだとき、その方法論や思想に支配され、自由を失ってしまうようです。

私はこの25年間、食事を通して多くの病の人たちと接してきましたが、そのほとんどの人が何らかの治療法に依存し、不安を持って病気と付き合っていました。
しかし「病気は私たちの魂を向上させるための最善の宿題である」と捉え、出来ない宿題は無いと確信し、病気に感謝したとき、病が癒されると同時に私たちの命も一回り成長するようです。
私たちは、どのような思想や理論や学問にも支配されず、そして依存もしないであらゆるものから解き放たれたとき、病気の克服と共に幸福も訪れると思います。

私がこのホロトロピッククラブに興味を持ったのは、このクラブがこうでなければならない、ああでなければならない、こうあるべきだという強制も無ければ支配も依存も無いネットワークになりうると確信を持ったからです。
真のネットワークとは瓦のようなもので、瓦は一枚一枚が85%の自己主張をし、なおかつ上下左右15%少しずつ周りと手を取り合い、家を守っています。
もしその一枚でも欠ければ雨が漏り、家全体の存続そのものに多大な影響を与えます。

これと同じように、私たち一人一人は何者にも支配されず依存もしないで個として立ち、かけがえの無い大切な存在として自分を認識し、手を繋ぎ合うことだと思います。
ところが現在は瓦が一枚岩として機能することなく数箇所に固まり、お互いの正しさを主張し相手の欠点を非難しあっている状況です。

このクラブでは、医科と歯科の協力、東洋医学と西洋医学の融合、そして食の見直し、そして何より、病気を魂の成長のための最善の宿題と捉え、あらゆる情報と具体的な治療法を、受け取ることも発信することも出来る、真のネットワークになりうると期待しています。
このクラブに私の25年間の経験と実績がお役に立てれば幸いです。」

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次なる出会いは再会でした。
それは東洋医学の師であり、私の人生の師でもある、故・伊藤真愚先生でした。
先生はすに癌で亡くなられているのですが、偶然にも私の料理教室主催者のメンバーに先生のご長男が加わっておられ、奇しくも五回忌の命日を前に、先生の庵で歓迎会が開かれました。

先生のお宅は200年前のかやぶき屋根の家で、玄関を入ると最初に囲炉裏の間があり、そこは、いつも先生が囲炉裏をつつきながらよく私に話しかけてくださった想い出の場所でした。
私はまず囲炉裏の間の横にある会計に入って、この5年間のご報告をさせていただきました。
この会計というのは、畳一枚の広さのところに薬師観音様が祀ってあり、その前に賽銭箱があります。
いくら払うかは患者さんが決める。
一銭も払わなくてもよいし百万円払ってもよい。
誰がいくら払ったか先生が知る由もない世界です。
経済そのものを天に任せて、天から生かされて生きることを信頼しきっていた、先生の生き方を象徴する場所で、この部屋に入ると生前先生がいつも醸し出していた、おおらかで温かくてゆったりとした雰囲気に浸れるのです。

「出来るだけゆったりのんびり自分が出来ることを信じて、天に電話をかけなさい。 そして答えを静かに待ちなさい。 必ず天は答えてくれます」。
「幸福とはリフレッシュなり」。

いつもの先生の言葉が聞こえてくるようでした。
心地よく先生と再会した後、先生宅での夕食会で、また予想もしない再会が待っていました。
「わら」開宿当初に来ていただき、野外コンサート第一弾をやってくれたシンガーソングライターの大村カズさんが、食後私たちのためのミニコンサートをしてくれたのです。
かおりはカズさんの歌を聞いて当時を思い出したのか、涙をこらえるのに精一杯だったようです。

その夜は5年前に「わら」を卒業した、元研修生の馬渕好子さんが営む「与田切自然館」が私たちを待っていてくれました。
馬渕さんは「わら」始まって以来はじめての50代の研修生でした。
若い研修生たちからお母さんと慕われ、主婦暦25年の馬渕さんは、かえって私たちのほうが学ぶことの多かった人でした。
その馬渕さんが、ご主人の定年を機にレストランを始めていたのです。
川のせせらぎが聞こえる山林の中にあり、木の温もりのある落ちついた建物で、食堂には岡山の「わら」から切り出した木で、ご主人が手作りした懐かしいテーブルが置いてあり、建物の随所に馬渕さんの心遣いが感じられる温かい場所でした。

その夜は馬渕さんと昔話に花が咲き、真愚先生と馬渕さんの愛情に包まれて心地よい眠りにつきました。
翌朝の食事のおいしいこと!「わら」では研修生に料理の技術的なことは何も伝えていません。
ただ「素材に失礼のないように料理し、自然の恵みに感謝しましょう」とだけ言ってきました。
馬渕さんの朝食をいただいた時、料理の先輩として私がもう何も言うことは無いと思いました。
馬渕さんの料理から、素材への感謝と私たち食べてもらう人への愛情がひしひしと伝わってきました。
物言わぬ物に物言わす物づくり……「わら」の料理が目指していたものが、ここにしっかりと存在していました。

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次に再会したのが米倉安義さん。
「わら」で唯一人、お父さんと呼ばれていた彼もまた「わら」の卒業生で、豊田市で「自然庵」という自然食のお店とレストランを営んでいます。
馬渕さんと同期で、そのとき「わら」には「お父さん」と「お母さん」が同居していました。
米倉さんがいるといつも「わら」は笑い声に包まれていました。
声が大きいので、いつもこにいるかわかるような明朗快活な人です。

そんな米倉さんには料理の研修というより、草刈、土木作業や大工仕事を中心にやってもらっていたので、正直レストランが出来るのか不安だったのですが、私が最も伝えたかった「感謝の心」が生きていました。
その上、「わら」の料理の上に米倉さんならではのオリジナリティーがプラスされていて、おおらかで、明るく楽しい、それでいてどこかに優しさが表現された料理でした。

「わら」の卒業生二人の料理を食べさせていただき、私はただただ「ありがとうございます」の一言に尽きる思いでした。

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最後の出会いは、18年前「わら」を開宿した頃、借金に追われ、経済的にも精神的にも最も辛かったときに、物心両面で私たちを支えてくれた恩人、石戸谷さん夫妻との7年ぶりの再会です。
今でこそあちこちで講演をしている私ですが、石戸谷さんは私の講演会を最初に企画してくれた方でした。
又、日本の「わら」からNZの「わら」まで今なお綿々と繋がっている生活体験合宿を最初に企画、開催してくれたのもこの石戸谷さんで、NZ への移住に際しても心から理解し、応援してくれた数少ない友人の一人でした。

今回、石戸谷さんの住む青森で再会の機に恵まれたのですが、7年のギャップは会った瞬間に吹っ飛んでしまい、ゆっくりと楽しいひと時を過させていただきました。
言葉にならない、深いところで分かり合える友人のありがたさに、私は胸がいっぱいになりました。
思いがけない再会に喜び、また様々な出会いに恵まれて、新たな意欲を刺激された一年でした。
それらすべての出会いに感謝しつつ、これからの新たな出会いに胸をふくらませています。

行ってきました!ニュージーランド2

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●城 雄二さん
思いがけず誘われてきてしまったニュージーランド。
身にしみることの多い旅でした。ありがとうございます。
一つは船越さん一家の心のこもったおもてなし、お出迎え、お世話、解説。
これは一年や二年で出来ることではないですね。
ご家族全員でお料理を作られ、おもてなしされる心が材料の良さをいっそう引き立たせ、毎回、一皿一皿、味わわせていただきました。
包丁が細かく入れられた工夫の上に感謝を込めたお料理はとてもおいしく、ありがたいと感じました。
その心を私も生活の中に生かしてみたいです。

二つ目は、ニュージーランドの人々の生き方、暮らし方の一部を垣間見て、何か大切なもの、自分が探していた宝物を見つけた感じです。
原発の無い暮らし、下水道を自然の汽水域で浄化する知恵。
ホテルで風呂のタオルをタオルかけにかけて乾燥すれば、次の日には使えるという合理主義、平和主義・・・・・。優しい人々の人柄はこの豊かな自然に培われたものでしょうか。
それが暮らしの中にも根付いている感じです。
これは日本も学ぶに値するものだと思いました。

三つ目は豊かな大自然。好天に恵まれたとはいえ、ニュージーランドの自然は思っていた以上にすばらしいものでした。

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●菊池正子さん
予想以上に楽しく贅沢な実り多い旅でした。
船越家全員の心温まるおもてなしに感謝感激です。
自分自身で納得できることを続けていけば間違いないと確信しました。

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●小堀照美さん
NZから帰ってきて10日が経ちました。
WARAで過ごした日々がもう遠い日の事のように感じます。
まるで自分の家にいるようにリラックスし、でも絶対に自分の家では在り得ない多くのおもしろい人たちがやって来て、WARAという宿は本当に不思議な空間だと思っていました。

そして、人との出会い、やはりこれほどおもしろいことはないないと思いました。
「人が私の運命を運んでくる」、トイレにあったカレンダーに、このような意味の言葉が書いてありました。
全くその通りだと思いました。
多くの出会いを提供してくれた船越さんファミリーに心から感謝します。
もちろん、船越さん・かおりさん・耕太君・藍ちゃんと出会い、話ができたこと自体が大きな収穫です。

日本に戻り、喧騒の中で仕事をしていますが、このようななかでも、ふっとあのNZの時間を思い出すと、自分の在り方・生き方の確認ができます。本当にありがとうございました。

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●吉田和夫さん(仮名)
天気にも恵まれ、日本で計画していたNZ でやりたいことメニューを全てクリアーいたしました。
心配していた子供たちの体調も絶好調で、風邪一つ引かず、ハイテンションで遊びまわっていたかげには、わらでくつろげたこと、おいしくバランスの良い船越さんの料理があったと感謝しております。

また船越ファミリーにも大変良くして頂き、いい思い出になりました。「NZ積み立て」を行い、また家族でNZ に来たいと思っております。

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●吉田みづきさん(13 歳・仮名)
わらに来てまずびっくりしました。
「宿」と言うからとても堅苦しい感じがあるのに、とても気軽に迎えてくれたからです。
みんな年上で本当の兄とか姉とかそんな感じでした。ご飯もおいしいし、とても楽しく過ごせました。飛行機は嫌いだけど、絶対にまた来ます。

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●吉田尚美さん(仮名)
夢のような毎日でした。
2年前行きたいなぁーと思って「でもね・・・」と、いろいろ引っかかることがあったのが、昨年の講演を聞いて「やっぱりいきたい」と思い、イメージし始めてからは次々と具体化していきました。
こちらの日程も少し忙しいかなと思っていましたが、子供たちが喘息もアレルギーも出ず、毎日とっても元気に過ごせたのでラッキーでした。船越さんのおいしい愛情溢れた料理もとても嬉しかったです。

バイオダイナミックス農法は私ももっと勉強してみたいと思います。
アナリーのお話が聞けてますます興味が沸きました。全てのことに感謝しています。

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●猪瀬幸子さん
昨年6月に船越さんの講演を拝聴。「よっしゃー、NZ に行くぞっ」と決めてから、いろんな変化が起きました。
宇宙と人生は混沌と調和の繰り返しという言葉が身にしみました。
現在の私はまさにカオスの中。
が、ここ、わらでの充電のおかげで光が見えてきたような・・・! 日本に帰ったらわんさとやりたいことが次々にイメージで現れてきました。
とても嬉しいです。

それから、船越さんの気合とかおりさんのパワー、それを支える子供さんたちのエネルギー、本当にすばらしいご家族に出会えました。お料理、お部屋、庭、全てにめちゃめちゃ感動しました。

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●磯村洋子さん
おいしい料理と船越家の皆さんの笑顔がとっても嬉しく、感激しました。
八年前の自分は主人をなくした悲しみで心もゆがみ、自分が嫌で仕方なかった。
でも、いろんな方のおかげで今日まで元気に生きてこられたことを、改めて「わら」で家族の暖かさと人間の優しさを体一杯に感じさていただきました。

これからは私も「ツイてるね」を合言葉にさせていただき、楽しくイキイキ人生にしてゆきます。






成り行きにまかせて生きる

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成り行きにまかせて生きる

私私達家族が、NZで暮らし始めてもう2年半が過ぎました。
当初は子供達が独立してゆく時を前にして、私達家族がさらに輝くものを見つけるために時間を持ちたいと願い、わらをお休みして1、2年のつもりでの渡航でした。
ところが気が付けば、日本にいるときから絶対不可能だといわれていた永住権を家族全員が取得でき、家を購入、滞在型レストランのオープン、そして日本からのお客様をお迎えして、ツアーコンダクターとしても仕事を始めるまでに至り、こうして毎回1000通を超えるわら通信を定期的に送らせていただけるようになりました。

私達がNZに来たことで、もうすでに200名を超える方々が日本からNZを訪問してくださいました。
2年前には予想もしなかった現実が今ここにあります。
もちろん日本を発つ前から、NZで料理主体の宿ができればいいなという漠然とした希望はありました。
私の場合、こうでなければいやだ、ああでなければだめだというこだわりがあまりなく、こうなったらいいな、ああなればいいなという位の気持ちで深く考えもせず、計画性もなく、とりあえずイメージしたことに対して成り行きに任せて動くということをしてきました。

こんな生き方ができるようになったのは、「食事を変えることで運命が変わる」という確信を持っていたからです。
こちらにきて出来たNZの友人もたくさんいますが、ありがたいことに、このわら通信やホームページを通して、新たに知り合った日本の友人もたくさんいます。

縁とは不思議なもので、時間や距離や場所に関係なく、つながる人とは必ずつながるようになっているものだとつくづく感じています。
昨年6月帰国の時に、坂田道信さんのお宅を訪問させていただく機会がありました。

その時、坂田さんは私に会うなり「人生の豊かさは友達の数で決まるよ。そしてまず自分が信頼される人間になることだよ。」と話してくださいました。
他の用事でお訪ねしたのですが、それにはおかまいなしで、人の縁の大切さと、友人について切々と話してくださいました。
坂田さんはお会いするたび、いつもやぶから棒に何の前置きもなく私にとってその時その時でもっとも必要なことを話してくださいます。
まるで天の声が坂田さんを通して語られているかのようです。

そして、誰にでも私にとっての坂田さんと同じような存在の人がいるはずだと思います。
最近気がついたのですが、よく考えてみると日常の中でもっとも身近な家族や友人との会話の中にこそ天の声があるように思います。
わらを始めてまもないころ商人としての生き方の訓示をおおやかずこさんからいただいたことがあります。
その中にいつも私自身に言い聞かせてきた言葉がいくつかあります。
「相手に喜んでもらい、満足していただく思いやりの表現をサービスといいます。触れ合いの深さによって4つの段階があります。一般客、知人客、友人客、信頼客、お客様にどれだけ満足いただいているかの目安です。」

お客様に料理を作り、お迎えする時にこの言葉はいつも心に念じていました。
今ここNZでの生活が成り立っているのも日本の百姓屋敷わら15年間で得ることの出来た「信頼客」のおかげだと感謝しています。
もう一つ常に私自身に念じていた言葉があります。
「自分以外のどれだけ多くの人々の人生と運命に、どれだけよき影響を与えることができたかどうかー人生の成功という言葉の定義にしたいと思います。」
出来ないけれど、今も目標にし常に心がけていることです。


こんな国だよニュージーランド

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こんな国だよニュージーランド

この2年半、無我夢中でやってきましたが、やっとNZでの生活が落ち着き、こちらでの生活を楽しみ味わえるようになりました。
NZに来た当初は生活習慣や文化の違いを理解し許容することに大きな労力を費やしました。

まずなによりも困ったことが、当然のことながら言葉が通じないことで、それは今も変わりないのですが、スーパーで食料品を買うだけならば、レジに持っていけばすむことなので何の問題もありません。
しかし一家で生活するとなると、電気、電話、ガスの契約から始まって銀行口座やクレジットの開設、自動車保険に車検手続き等々、日本では電話一本でできていたことが、丸一日がかりでも出来ないことがしばしばありました。

例えば、我が家の改築の際こちらで仲良くなり気心の知れた大工さんをお願いした時のことです。
その大工さんが明日カーテン屋さんに9時に私の家に来てもらう約束をしたと言うので、次の日、時間どおり待っていたのですが、当の大工さんが来たのはお昼過ぎでした。

そしてニコニコと笑顔でこう言うのです。
「来る途中に海を見たら、絶好の波だったのでサーフィンをしていたのだ。康弘、サーフィンは最高だよ。こんど一緒にやろうよ。」
とあまりに楽しそうにしているので、イライラしている自分の方がおかしいのかなとさえ思いました。

もちろん仕事の方は大変親身で、自分は大工の日当だけで十分だからと手数料は全く取らず、キッチンシンクやガスコンロ、オーブンなども安くて納得のできる品物を何軒も探し回って仕入れてくれました。
ただそんな大工さんだったのと、材料屋さんがNZの業者さんだったので、工期は予定の2倍かかりました。

NZではどこへ行っても約束の日時が遅れるのは当たり前で、注文した品物と違うものが届くことも日常茶飯事です。
日本の常識からすると、あきれ返ることばかりです。
しかし反面、一人一人の店員さんは個人としてはとても親切です。
たとえば私達の欲しいものが、自分の店にない時などは他店の住所と電話番号だけでなく、地図まで書いて教えてくれます。
自分の店にあるものでも、「今日はあの店がセールをしているので、あちらで買ったほうがいいよ。」とまで言ってくれる店員までいます。

パソコン専用の電話線の増設工事をテレコム・ニュージーに依頼した時などは「テレコムは工事代金が高いので、安くて良心的な所を紹介してあげますよ。」と言って、自社に電話をかけてきたお客に対して自社の電話口で他社を紹介してくれるのですから、これにはさすがに驚きました。



でもこれは決して特別なことではなく、こちらにきて何度も同じような経験をしました。
どうもNZ人は会社に対しての帰属意識があまりないようで、ましてや愛社精神という言葉は全く理解できないようです。
ですから、NZ人に日本では夜の9〜10時まで働き、土曜日も働いているサラリーマンが大勢いるという話をしても、全く信じられないといった表情で、我々には理解できないといいます。

当然、このような働き振りですから、平均年収は日本に比べて低く、大体180万くらいです。
ですから、生活はとても質素です。
しかし、たいていの人はなんらかの趣味を持ち、週末には必ず好きなスポーツを楽しんでいます。
どのスポーツ施設も格安で使用できますし、各住宅地ごとに必ず緑地公園があり、その中には無料のテニスコートが付いています。
ゴルフ場の数も人口あたりにすると世界一で、当然値段も安く、年会費を3万円位払えば年中使い放題です。
それに特に高収入じゃなくても自前のヨットを持っている人もたくさんいます。

こうして、NZの人とお付き合いして分かったことは野心というものがないし、今を犠牲にして将来のためにということはあまり考えず、ましてや競争して人を蹴落としがんばってナンバー1になろうということよりもまず、人生をおおらかに楽しもうという人が多いようです。
ですからNZ人の気質を一言でいえば、イージーゴーイング、こせこせしない、こだわらないということでしょうか。

また、この国は持ち家率が70%と高く、若い世代でも自分の持ち家を持つことが比較的容易です。
というのも、土地はもちろんのこと、建物の不動産価値がほとんど下がりません。
ですから、一割の頭金さえあれば銀行が簡単にローンを組んでくれます。
ここでは、小さめの家であれば、500万円位からあります。
小さいといっても敷地は200坪、建坪は40坪位で、もちろん庭付き、ガレージ付きです。

この国では18歳になるとほとんど独立して、アパートを借り、親元をはなれますが、たいていの場合、20代で家を持つことになります。
そして、個人としての人生を歩みますので、家を継ぐとか、家を守るというような発想はあまりなく、それぞれの年代や仕事、ライフスタイルにあわせて、どんどん家を買い換えていきます。

NZの人は平均で5年から7年に1度、家を買い換えて引越しをします。
日本で言うと、丁度車を買いかえるような感覚でしょうか。
たとえば、独身時代は、シティセンターの便利なところに住み、新婚時代は海の見える丘の上に住み、子供ができると、安全な公園の近くに移り、小学校に行くようになると、自分たちの教育方針に添った学校の近くに移り、ハイスクールに上がれば、またハイスクールの近くに移り、子供たちが独立するとファームを買い、自然の中でゆったり暮らし、老後は家を売り、そのお金で自分の気に入った老人ホームで暮らすというように、NZの人は一生の間に、何度も家を買い換え、家にしばられることなく、個としての生き方を楽しんでいます。
ですから、売り家も多く、このクライストチャーチだけでも毎週週刊誌1冊分の売り家情報があり、好みの家を探して買うことがとても簡単にできます。
私達も家を購入する際、2か月かけて150軒あまり見て歩きましたが、家も一軒一軒が個性的で、すべての間取りがみんな違っていました。

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農業についてはNZもまた厳しい状態にありますが、後継者不足という問題はほとんどありません。
ファームを営みながら自然の中で暮らすというライフスタイルは人気があり、ファームが売りにでても必ず買い手がつきます。

日本の場合、空家や荒れた農地がたくさんあって、農的暮らしを希望する人もたくさんいるにもかかわらず、なかなか入植するのは困難です。
家を継ぐというのは単に不動産だけにとどまらず、家名や先祖、そして文化、習慣も含めた家督の相続という考えが根強く残っているからでしょう。

日本の文化や精神性もそんな習慣に育まれてきたのですから単純な問題ではないことも分かっていますが、農地が荒れて田舎に空き屋が増え、一方では就農希望者がたくさんいるのにもったいないことだとNZに来てつくづく感じました。

また、NZで走っている車のほとんどは10年以上10万キロ以上走った車で、それをとても大切に乗り続けています。
他にも生活資材や電化製品や家具なども粗大ゴミとして捨てられることはなく、どんなに古くなっても中古品として市場に出回り、本当にどうしようもなくなるまで、使いきっています。
収入が少ない分、物質的な豊かさは日本に比べはるかに少ないのですが、本当の豊かさとは何かとか、時間の使い方について、いろいろ考えさせられました。

やっぱり、ごはんが一番

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やっぱり、ごはんが一番

NZに来て、何といっても変化したのが食生活です。
まず、外食の回数が増えました。
増えたというより、最初のころは食べ歩き三昧でした。

NZは移民の国なので、シティセンターに行けば歩いて10分以内に1キロ四方に20か国以上のレストランがあります。
どの店もその国の人が自国の味と伝統を守り料理しているので、それぞれの国の本格的なオリジナルの味だけでなく、器や調度品、インテリア、そして音楽にいたるまでその国の文化をまるごと楽しむことができます。
食いしん坊の私にとっては毎日が夢のようでした。おかげで気がつけば、3か月で体重が8kgも増えました。

この間に北海道から九州まで全国から200名以上のお客様が来てくださいました。
懐かしい顔にもたくさん出会え、楽しく料理させていただきました。

その中にカハラのオーナーシェフ・森さんご夫婦も来てくださっていました。
私にとって、森さんは大きな憧れであり、尊敬する料理人の一人なのです。
森さんの料理はフランス料理でも和食でもなく、日本中が認めたオンリーワンの「カハラの料理」という新しいジャンルを創造された方です。
今でこそ創作料理の店というのがたくさんありますが、森さんはその草分けで、私にしてみれば憧れのハリウッドの大スターのようなものです。

その森さんに「“わらの料理”という独自の世界を持っていますね」「2年のブランクがあるのによくここまでの料理ができましたね」とお褒めをいただき、天にも昇る気持ちでした。
長女藍が料理をお出しする度に「しっかり気配りができていて、とても気持ちよくおいしくいただいています、ありがとう」と声を掛けてくだり、藍もよほどうれしかったのか、厨房に戻ってくる度に弾んだ声で、「お父さん、あの森さんがああ言ってくれた、こう言ってくれた」と目を輝かせながら報告してくれるのです。

私たちの小さな誠意の積み重ね、それをお客様に喜んでもらえることで、私たちも満ち足りた気持ちを味わい、そのことを娘と共有できたことは本当にありがたいことでした。

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しかし、いくらおいしい食べ物でもやはり飽きがきてしまいました。
数ヶ月もしないうちに、まず子供達がお弁当をおにぎりにしてほしいと言いだし、当初あれほど行った各国料理の外食もほとんど行かなくなりました。
家での食卓もめっきり肉、魚は姿を消し、ご飯と味噌汁と野菜中心の食事に落ち着きました。
つくづく食の基本は飽きない、ということを実感しました。
今、娘の藍(15歳)はここ2年間、完全穀物菜食を自分の意志で実行しています。
私達家族はNZの食生活を体験し、ご飯の大切さを知識としてではなく、実感として知ることができました。

そんな中、今も続いている食べ物があります。
それは果物です。
日本にいるころはあまり食べることはなかったのですが、こちらの果物はオーガニックのものがおいしくて、とても安いのです。
林檎などは完全無農薬で1キロあたり2ドル(120円)と感動的な安さで、その上オーガニックなのでまるかじりできるのです。

それになんといっても驚いたのは桃です。日本のわらに桃の木があり、毎年花はきれいに咲き、梅くらいの大きさまでは順調に育ってくれるのですが、最後は虫にやられてしまい、結局15年間で1つも食べることができませんでした。
ところがNZでは桃に虫がつかないのです。
今の家にも桃の木があり、重さで枝が折れそうな程、見事に実をつけてくれるのです。
初めてそれを目にした時は、桃の木の前でしばらく立ち尽くしてしまいました。

桃の産地に育った私にとって、肥料や選定や受粉もせず、一切人の手をかけないでたわわに実った桃を見たのは初めてのことでした。
その当たり前の自然な姿に体が震える思いでした。
1本の木からとれる桃の量は相当なもので、とても食べきれるものではなく、蜜煮で保存したりジャムやお菓子にしたり、それでもあまって隣のやぎのえさになりました。
おかげで桃のない今の時期でも、隣のやぎは私をみるとかけ寄ってくれます。

オーガニックツアーでいつもお世話になっているアナリーのガーデンでは、洋ナシ、ぶとう、りんご、あんずなどが庭いっぱいに実をつけ、ツアーの時にはアナリーの講義を聞きながら、それぞれ思い思いに好きな果物を丸かじりさせてもらいました。
またスージーの家には大きなレモンの木があり、しかもどういうわけかNZでは年中実をつけていて、いつでもフレッシュなレモンを食べることができます。

NZに来てから我が家の食堂には専用のフルーツ籠があり、その中は季節の果物でいっぱいなのです。



第5回ニュージーランド人物列伝

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久保星児・一代ご夫妻
──事業家──



NZに来て出逢った人の多くは、夢と希望を持ち、それを具体的に叶えようと行動する人たちでした。
中でも今回登場していただく久保さんは、夢追い人の典型のような方で、会うといつも時間を忘れて夢を語り合います。

ご夫婦とも私たち家族ととても馬が合うというか相性が良く、共通の話題も多いので、まだ出会って間もないのですが、古くからの友人のように、とても親しくさせてもらっています。

久保さんは大手のコンピュータ会社に勤務されていたのですが、生活のリズム全てが会社中心で、食事を共にすることも出来ないくらい時間に追われる生活でした。
家族のあり方がおかしいと感じ出したころ、それまで理論的に納得できることしか信じられなかったのに、心や精神の世界について急速に興味がわいてきたといいます。

勉強するうちに、生き方を変えてゼロから始めてみたいという想いがつのり、同じゼロからの出発なら未知の世界の海外でと考え、まず縁のあったオーストラリアのメルボルンに家族で短期の生活体験滞在をするため渡航されました。
その時、たまたま友人が住んでいたクライストチャーチに一週間だけ立ち寄ったのですが、その短い間にとてもリラックスすることができ、「ここだ!ここがいい!」とひらめきを感じたそうです。

日本に帰国後、早速東京のNZ大使館に永住権の申請をすると、とんとん拍子にことが進み、わずか2週間で永住権が取得できました。
まさに、久保さん一家はNZに吸い寄せられるようにして移住されました。

それから12年、いろいろな企画を立案したり、実際に事業もいくつか立ち上げるなど、事業家として活躍されてきました。

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その中でもご夫婦が揃って最も力を入れ、そして成功を収めた事業というのが、ご飯をしっかり食べてもらうということをコンセプトにした“ライスボックス”というお店です。

NZに来て健康について考えるようになり、その結果改めてご飯のすばらしさを再認識されたそうです。
EAT MORE RICE FOR YOUR HEALTH をメインテーマにして、どんぶりものや寿司のようなご飯を中心にしたメニュー構成で食事を提供するとともに、ご飯を食べることが肉食に比べ環境に優しいということや、歯の数から穀物を主食にする粉世の必要性、ご飯が人の健康にも環境にも役立つことなどを伝える、まさに食生活提案型のファーストフード店として、またおいしいご飯の店として注目の的になったのでした。

私たちが日本の「わら」で目標としてやってきたことと同じことを、同じ時期に久保さんたちもこのNZでやっていたのでした。
久保さんはライスボックスと平行して、環境、農業、職、健康、教育などといったことにどんどんと興味が広がり、それを実際の事業として成立するような企画コンサルタントの仕事もしていました。

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その久保さんの熱き思いのこもった企画が、NZに健康ユートピアを作りたいという夢を持っていた越智宏倫さんとの出会いによって、今、具体的に動き始めています。

NZで最も肥沃で農業に適したオマルに200ヘクタールの農地と、27ヘクタールの広さを持つティッシュメーカーというキャンパス跡地を取得し、健康科学のエキスパート養成学校の開校に向け、大掛かりな改装工事が進んでいます。
これは越智さんが私財を投じて、世界に貢献しうる専門家を、それも理想家ではなく、ビジネスとして成立する実戦人を育てたいという切なる願いと夢が、久保さんという現地ディレクターによって着実に実を結ぼうとしているのです。このプロジェクトは「3Hグッド・フード・タウン」と名づけられ、3Hはハッピー、ヘルシー、ハートフルの意。

21世紀の人類の健康のために、企業、大学、政府、自治体が力を合わせて目標を実現していくことを提唱しています。
ニュージーランドの南島を拠点に、「食の安全と健康」を目指す世界センターを作り、世界の人々の健康に貢献するエキスパートと技術を開発しようとするものです。

─プロジェクトの目標─
「私たちの子供達に食べさせたい
健康で安全なグッドフードの実現を目指し、
そのための技術や材料を開発する」

このプロジェクトはNZ政府や企業、大学の人々もとても関心を寄せています。

久保さんも7年間手塩にかけて育て上げたライスボックスを手放し、クライストチャーチの家も引き払って、奥さんとともにオマルに移住しました。
50歳を過ぎ、これからの人生をこのプロジェクトに賭け、単なる空想ではなく具体的な行動を伴って夢を追い続ける久保さんと出会い、本当に多くのことを学ばせていただいています。

今、久保さんはオマルに6ヘクタールの土地を購入し、その中心に奥さんとともに設計した自分たちの家を建築中で、来春には完成予定です。
そこで自らもオーガニック農法を実践し、自給自足の生活を目指しています。

皆さんもNZに来て、私とともに久保さんの住むオマルを訪ね、「夢を持って生きる」ことを実際に体験してみませんか。
そして「私たちの決意の一つ一つが、行為の一つ一つが、世界の運命とそしてわれわれの生命に必然の結果を残します。」というフレデリック・バックの言葉について、一緒に語り明かしましょう。

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プロジェクトの詳細、参画希望の方は、以下のホームページにアクセスし、コンタクトのページを利用してください。
www.3hgft.com



夢は実現する 夢が夢を呼ぶ

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夢は実現する 夢が夢を呼ぶ

家族揃ってNZに暮らし、宿を始められるなんて、2年前には夢のまた夢でした。



NZに来て2年が過ぎました。
気が付くと何の手がかりもないNZで宿をオープンしていました。
17年前、日本で「わら」を始めたときも今と同じような状態で、何のめども計画性もないままでの開業でした。

当時、自然食の宿は日本にほとんどなく、ましてや観光地でもなんでもない交通不便な山間僻地で民宿をするなんて、非常識も甚だしいと言われたものでした。
弱冠29歳の私には何の信用も実績も金もなく、あったのは夢と希望だけ。
「夢じゃ飯は食べていけないよ」と言われたことは今でもはっきり覚えています。

宿を始めてしばらくの間は、変人呼ばわりされたり、誹謗中傷、嫌がらせも続き、眠れぬ夜が何度もありました。
正直なところ怒りや恨みで心を乱し、平常心を失うことも何度かありました。
「恨みや愚痴は不幸を呼ぶ呪文」、自分の中に恨みを作らないためにも、絶対に成功して、ここで楽しく暮らせるようになろう。
自分に「だって」「でも」「しかし」は口にしないと誓ったのでした。

そんな時、おおやかずこさんと知り合いました。
彼女の潔い生き方に接した私は、そのときにいただいた「あるがままを、ありがたいと思うわが心の豊かさ」という言葉に救われました。
少々のことは気にならなくなり、いつしか中傷さえも感謝できるようになっていました。
変人と言われることで、かえって周りに気を使わなくてすむことに気づき、これはすなわち自由人への第一歩だ、非常識は私の個性だ、と笑って受け入れることができるようになりました。
私はどんどん楽になっていきました。

「自然の中で暮らしたい」「農業がしたい」「大好きな料理がしたい」「自然食のレストランと宿をやりたい」……そんな夢が実現していく中で、夢が夢を呼び、「料理本を出版したい」「子供をシュタイナースクールで学ばせたい」「フリーエネルギーのドームハウスを作りたい」「NZで暮らしてみたい」……イメージした夢が次々に実現していきました。

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こうした経験の中で、夢を実現するためのコツのようなものを掴んだような気がします。
まず、夢を具体的にイメージすること。実現可能なことだからこそイメージできるのであって、実現不可能なことはイメージすらできないのだという確信を持つこと。
次にどれだけ強く、どれだけ長くイメージしたかが実現の可能性に繋がるようです。
そして、実現までのプロセスの中で、問題や困難にぶつかったとき、やっぱり無理だという挫折感に支配されないよう心がけること。
この問題は私の人生にどんな意味をもつのか?この問題で学ぶことは何なのか?と自分に問いかけ、この困難には自分自身の内的向上を促す種が内在しているのだ!と積極的、建設的に向かい合うこと。「だって」「でも」「しかし」を言わないように心がけること。

もうひとつ大切なことは、夢に向けてイメージするだけでなく、具体的な行動を起こすことです。相田みつを氏の詩に「具体的に動かなければ具体的な答えは出ない」とありますが、まったく同感です。

この2年の間にも、奇跡ともいえるような永住権取得、理想的な家との出会い、NZでの宿の開業も実現しました。
それは、常に具体的に行動した結果として、その積み重ねが夢の実現に繋がったのだと思います。

宿を開業するためには、まず家を購入しなければなりませんでした。
その購入資金を銀行から借りる為、つたない英語で何度も交渉しました。
NZで信用と実績のない私たちにとってこれは大きな壁でしたが、夢に対する熱意で借り入れに成功しました。
家探しも2ヶ月かけて150軒ほど見て歩き、理想に近い家に出会うことができました。

次にお客様を迎えるための改装工事に取り掛かったのですが、できるだけ質が高く、満足して滞在していただけるよう、私たち自らが設計材料の買い付け、施工、すべてに関わりながらの改装工事でした。
まず動きやすい機能的なキッチン。
自然との一体感を大切に、NZの牧歌的雰囲気を楽しみながら食事をしていただけるよう、全面をガラス張りにしたサンルーム型の食堂。
そして床はリムウッドのリサイクル材を一週間かけて蘇らせ、使用しました。
少人数なら体操もできるような広さのオープンデッキ。
客室のベッドもコーヒーテーブルもすべて私たちの手作りという風に、あらゆる面で納得できるよう関わりました。
こうして新しい宿は、着々と私のイメージに近づいていきました。

また、こうした作業を通じて、クライストチャーチ中の材木屋さん、資材屋さん、キッチンショールームを知ることができました。
信頼できる良心的な大工さんとも出会い、日本とは違う西洋式の工法を教えてもらうと同時に、その根底にある文化の違いを学ぶことができました。
夢を実現するため具体的に動くこと、そこにはオマケとして多くの学びが用意されていました。

最後に、何より大切なことは、こうして夢を実現していく過程で体験したことに感謝し、縁あって出会った人やお世話になった人に報いるという報恩のこころを持つことだと思っています。



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どうです? こんなに楽しいこと皆さんもチャレンジしてみませんか?
私の夢ってなんだったのかな?なんて考える必要はありません。
考えるという作業はマイナスのエネルギーです。
どんな人も、生きている以上、夢はすでにあるはずです
。思い出すだけです。夢なんかない、という人は忘れているか、今の自分には無理だ、できるはずがないと思い込んでいるだけです。
自分の可能性に蓋をし、自己限定をしているに過ぎません。

生きるとは、無限の可能性を信じ、自己限定をはずすことだと思います。
夢はどこから来るのか考えたことありますか? 
これは私の勝手な想像ですが、夢は損得を考えているときではなく、無欲無心なときに沸いてくるひらめきであり、直感が具現化したものだと思うのです。
そう考えると、夢はまさに宇宙の意思であり、天からのプレゼントなのです。
せっかくのプレゼントです。ワクワクしながら包みを開けて、独り占めしないで縁ある人たちと分かち合い、楽しみましょう。


私は私が大好き

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私は私が大好き

私は今まで夢を追い、夢を求めて、ただひたすら走ってきました。
そしていつも“いいこと”“正義”を行っているのだと自分に言い聞かせてきました。
それが食品添加物、合成洗剤の追放運動や有機無農薬農業の推進へと私を駆り立てました。

私のエネルギーはいつも外へ外へと向かい、もっともっとと自分をせきたてるように動いていました。
今思えばいつもどこかに不安と寂しさを抱え、それをごまかす為に「世のため人のため」と自分に言い訳をしながら、そんな自分を正当化するための行動だったように思います。
それがピークに達したのが、チェルノブイリ原発事故後の反対運動への参加でした。
今、原発を止めなければ子供たちに未来はない。
原発反対は私にとって最優先のことになり、家庭を顧みることなくそれに没頭しました。

そんなある日、子供に「どうしてお父さんは家にいないの?もっとお父さんに家にいてほしい」とぽつりと言われ、子供のためといいながら、今目の前にこうしてともに生きている家族を犠牲にしてしまっていることに気づき、大きなショックを受けました。

このとき私は、外に出て反対運動で旗をふることよりも、この子達のそばにいて、もしものことがあった時でも「大丈夫だよ!」と言って抱きしめてやることのほうが大切なのではないかという思いが芽生えました。
それでもまだ、外に向かうエネルギーは止まらず、過疎化の進む地元地域のために、食と工芸を中心とした地域振興プロジェクトを中心になって立ち上げ、多くの人を巻き込んで動き始めたとき、ついにかおりは子供3人を連れ、離婚覚悟の家出によって、私に無言のメッセージをくれたのでした。

こんなことを繰り返していたとき、私は渡辺和子先生の講演を聞く機会を与えられました。
「平和の実現には、単なる国際政治や社会運動だけでは不十分だ、人類ひとりひとりが、他のひとりひとりと平和に暮らしているのでなければ、真の平和とは言えない。
平和の源も、戦争の源も、ひとりひとりの心の中にある。
人類の運命は、われわれの内面的な自己中心性を克服する闘争にかかっている」この言葉は、私の胸を貫きました。
「一隅を守り万里を照らす」の意味がわかりかけたような思いでした。
それからの私は「まずよき父親、よき夫、よき料理人でありたい」と願うようになり、いつしかそれが私の口癖になりました。

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以来私は、自分自身と平和に暮らすということを目標に生きてきました。
しかしこれは「言うは易し、行なうは難し」の見本のようなもので、今でもできていません。
つい不機嫌になり、かおりに当たったり、しからなくていいことで子供をしかりつけたり、家庭の中に険悪な空気を作ってしまいました。

数年前、私は中野裕弓さんに出会い、自分自身と平和に暮らすための特効薬となる言葉をいただきました。
「私は私が大好き」これは効果抜群で何度も唱えていると自分自身が穏やかになり、周りの険悪な空気も和ませてくれます。

NZに来て、異文化の中で暮らしていると、「そんな馬鹿な!そんな非常識な!」ということに何度となく遭遇し、そのたびに心を乱し、不機嫌になり、仏頂面をしてしまいがちでしたが、そんなとき私は心の中で唱える「私は私が大好き」ですっきりします。

♪想像してごらん、国境のない世界を
 実現するのは難しいことじゃない
 想像してごらん、すべての人が
 平和に暮らしているのを♪

ジョン・レノンのイマジンの世界、平和な社会を作り、平和に暮らすことの一番の近道は、自分自身と平和に暮らすことではないでしょうか?
価値観や常識の違いを認め、人と争わない、人と仲良く暮らす、ということの元にあるのは、まず自分が自分と仲良く暮らすことではないでしょうか?
そのための最高の合言葉、「私は私が大好き」。皆さんも試してみてください。


私にはやっぱり料理しかない

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私にはやっぱり料理しかない

昨年暮れから2ヶ月間の一時帰国のとき、日本の「わら」で私が久しぶりに包丁を握り、営業させていただきました。
2年間のブランクがあったので、包丁研ぎから火の通し具合、だしのとり方、パンの酵母の調整、料理を出すタイミング等々、いろいろ不安だらけのスタートでしたが、ありがたいことに頭よりも体が、しみこんでいた勘を覚えていてくれました。
スムーズに料理することができ、お客様にも喜んでいただけました。

この間に北海道から九州まで全国から200名以上のお客様が来てくださいました。
懐かしい顔にもたくさん出会え、楽しく料理させていただきました。

その中にカハラのオーナーシェフ・森さんご夫婦も来てくださっていました。
私にとって、森さんは大きな憧れであり、尊敬する料理人の一人なのです。
森さんの料理はフランス料理でも和食でもなく、日本中が認めたオンリーワンの「カハラの料理」という新しいジャンルを創造された方です。
今でこそ創作料理の店というのがたくさんありますが、森さんはその草分けで、私にしてみれば憧れのハリウッドの大スターのようなものです。
その森さんに「“わらの料理”という独自の世界を持っていますね」「2年のブランクがあるのによくここまでの料理ができましたね」とお褒めをいただき、天にも昇る気持ちでした。
長女藍が料理をお出しする度に「しっかり気配りができていて、とても気持ちよくおいしくいただいています、ありがとう」と声を掛けてくだり、藍もよほどうれしかったのか、厨房に戻ってくる度に弾んだ声で、「お父さん、あの森さんがああ言ってくれた、こう言ってくれた」と目を輝かせながら報告してくれるのです。

私たちの小さな誠意の積み重ね、それをお客様に喜んでもらえることで、私たちも満ち足りた気持ちを味わい、そのことを娘と共有できたことは本当にありがたいことでした。

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その夜はいろんなことが一度に頭を駆け巡りました。
──我が師、小川法慶氏との出会い、先生の家で寝食を共にし、学ばせていただいた日々のこと。
──私の最も敬愛する料理人、竹内雅一氏との出会い。

竹内さんは私が料理人として自身を失いかけたとき、「料理人にとって大切なことは、受賞の数でも肩書きでもなんでもない、どれだけ多くのファンを持っているかですよ。
船越君はこんな不便な場所にもかかわらず、こんなにも多くの人に喜ばれる料理を出している。
料理人にとってこれ以上名誉なことはない、自信を持ちなさい」と言って下さり、私を立ち直らせてくれました。
また、我が家で一緒に食事をするときには、いつも最後に手をつけられ、おいしいところをまず私たちが食べられるように、さりげなく勧めてくださいます。
竹内さんには料理ばかりでなく、穏やかさや謙虚さを学ばせていただきました。

──月心寺の村瀬妙道尼僧。彼女は精進料理の世界ではカリスマ的存在で、片手がご不自由にもかかわらず豪快かつ繊細な料理を作られる方です。
村瀬さんのゴマ豆腐を食べたときは、一瞬息が止まるほどでした。
口にする程に、涙がこぼれそうになりました。
夜中の1時から片腕1本でゴマから摺り上げ、何時間もかけて作られるゴマ豆腐には、まさに村瀬さんが生きた時間、命そのものがこめられていました。

私は生意気にも感ずるところあって、料理に関する意見を手紙に書いたことがありました。
私のような名もない民宿の料理人など相手にしてもらえないと思っていたのですが、村瀬さんはお返事をくださいました。
私の手紙に対する感謝と、最後に「あなたにおいしいと言ってもらえるような料理を作れるよう一生懸命精進いたしますので、また食べに来てくださいネ」と書かれていました。
私はその手紙を前に大泣きしました。
──そのほかにも、天皇の料理番の野原義行さん、大阪のトップシェフ、ル・バンサンクの原シェフ、讃岐路の彦坂さん、華光軒の陳さん……料理人というより、私に人間としての成長と気づきを下さった方々が次から次へと頭に浮かび、目頭が熱くなったり胸がじーんとしたり、その夜私は幸せな気持ちでいっぱいになりました。
やっぱり私は料理人でよかった。料理を通してこんなにすばらしい人たちと出会えたのですから。

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そんなこんなで2週間の営業を終えた後、NZに戻って早々、食堂の改装工事が完成した翌日には、ハガキ道の坂田道信さんのツアーが来てくださいました。

さっそく、完成したばかりの食堂で料理教室と食事会を楽しんでいただきました。
この料理教室では、参加者全員の気持ちがひとつになり、「私たちは食べ物によって生かされて生きる命、感謝のひとつの表現として料理があるのだ」ということを、理屈ではなく体で感じていただくことができました。
それは、わらNZの食堂のこけら落としにふさわしい、とてもすばらしい会になりました。
この日、ツアーの主催者・坂田さんから、参加者を代表して次のようなユーモアある認定書をいただきました。

─────認定書─────

船越康弘様
あなた様は料理をすることを通して、私たちに真理に生きることを伝授してくださいました。
人間の職業の中でも最も尊い仕事「聖業」だともいえます。
よってこのたびの出会いを喜び「料理の神様」に認定させていただきまして、ますます多くの人々を導いてくださることを願い、感謝の思いをお伝えいたします。

好人物尊重協会

料理人として、この上ない出来事でした。
このNZでは、英語がよくできない私たちにとって、料理は最高のコミュニケート手段です。
気持ちを込めた料理を食べていただくことで言葉以上のものが伝わり、どんどんネットワークが広がりました。
そのおかげで、どこにもない最高のツアーが開催できるようになったのです。NZに来て自分自身を見つめなおし、自分の中にある可能性を探ってみたいと思っていましたが、やはり私は料理が大好き。
私は料理を通して生き方を探ることが一番合っていると再確認できました。

料理というものは最後は技術ではなく、それよりも大切なことは心を込めて作ること。
料理は私の人格が味となり形となっていくもの。
私の人格が貧しければすぐに料理に表れてしまいます。
「私は私が大好き」と言いながら、私自身を許し、私自身と和解し、私自身を愛しながら、これからも料理していきたいと意を新たにしました。



第4回ニュージーランド人物列伝

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李 建忠(リ・ジェンゾン)さん&ビヴァリーさん
──料理人──




李さんは、ミャンマー生まれで、4分の1がミャンマー人、4分の3が中国人、国籍はニュージーランドという異色の料理人です。
私たちの知る限りでは、NZ国内屈指の最高の料理人です。

去年の3月、耕太の誕生日にスペイン料理店に行こうとしたのですが、あいにく満席で、中野さんの紹介で行ったFINOという店のシェフが李さんだったのです。

お店のインテリアもメニューも特に際立つものはなく、ごく普通のありふれたレストランでした。
まったく期待しないで注文したのですが、最初に出てきたスパゲッティを食べてびっくり!!!麺の硬さといい塩加減といい、ソースのおいしさといい、何をとっても絶妙で、子供たちが「おいしい、おいしい」の連発で、ワーワー、ぎゃーぎゃーと大騒ぎ、後から出てきたリゾット、野菜のてんぷら、魚料理、そしてデザート、すべて大当たりでした。

どれもこれも素材の持ち味がしっかりしているのに、あっさりしていて、繊細で、素晴らしいの一語につきました。
それ以後、何かにつけ李さんの料理を食べに行くのが、私たちの楽しみになりました。
わらに来られるお客様にも、このおいしさを味わっていただきたくて、オーガニックツアーのウェルカムパーティーはいつも李さんにお願いしています。

私たちのツアーには完全菜食を希望のお客様もいらっしゃるのですが、そんな難しい注文も、李さんは快く引き受けてくれました。
それどころか、このときの料理がまた一段とすばらしく、参加者の一人が料理を食べながら涙を流したほどです。

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李さんはミャンマーに生まれたのですが、中国系であるということで、いろいろな差別にあいました。
国内の政情不安もあって、教育を受けることも困難な状況になり、将来を安じたご両親の勧めで14歳のとき台湾に留学しました。

しかし、当時のミャンマーには、出国後3ヶ月以内に帰国しなければ国籍剥奪という法律があり、李さんは14歳にして母国の国籍を失ってしまいました。
20歳まで台湾で暮らし、その後、日本語を学ぶため日本へ渡り、語学学校に入学しました。
このとき皿洗いのアルバイトをして、初めて料理に興味を持ったそうです。
皿洗いの合間に1品、2品と簡単な料理を作らせてもらえるようになり、そのセンスが認められ、気がつくと料理を作ることが主になっていったそうです。

いろんな料理にどんどん興味が広がり、いろんなお店で働きながら、料理を覚えていきました。
そんな時、たまたまワーキングホリデイで日本語を学びに来ていたビヴァリーと出会い、すっかり意気投合して現在に至ります。
李さんは「ビヴァリーについてきた」と言い、ビヴァリーさんもまた「李さんを私が連れてきた」のだと言います。
二人とも、相手が自分を愛している以上に、自分の方が相手を愛しているのだと主張し合うほど、仲のいい、ほほえましいカップルです。

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NZに来た李さんは、日本での経験を生かして、和食レストランで働き始めました。
ここでもまた働きながら料理を学んでいったのですが、NZでは料理店の数も、料理に関する情報も極端に少なく、李さんは物足りなさを感じていました。

そんなとき、日本人オーナーが経営する「Jクラブ」という郊外型高級レストランが開店し、料理人を募集しているという話が舞い込んできました。
すぐさま面接を受けに行き、「私を料理人として育ててください」と熱心に頼みこんだそうです。
オーナーの福田さんはそれを承諾し、李さんを採用してくれました。
そして日本ばかりかイタリア、スペインへの料理留学までさせてくれたのでした。

この出会いによって、李さんは独自の料理の世界を築き上げていくことが出来たのです。
李さんの料理に対するひたむきな情熱と穏やかさ、謙虚さ、勤勉さという人格的要素が、この奇蹟的な出会いを招いたのでしょう。

後になってわかったことですが、このオーナーの福田さんとカハラの森さんは古くからの知り合いということで、本当に世界は狭いなと実感しました。

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李さんの料理は、どれも薄味でシンプルなものが多いのですが、その理由を尋ねると、今までいろんな調味料やスパイスを駆使して料理を作ってきたけれど、味を追及していくと自然にシンプルにシンプルになってきたのだと言います。

そして、自家菜園をするようになってからは、もぎたての野菜をそのままで食べるおいしさを知り、素材が一番であること、そしてオーガニックな素材の必要性にも気づきました。
また、イタリアやスペインでおいしいと感じた食材を持ち帰って同じように料理しても、決して同じ味にはならないということを経験し、料理はその土地その季節のものを使うことが基本だと気がついたそうです。

李さんいわく
「まず自分たちが贅沢するように心がけています。自分たちが贅沢を知らなければ、お客様に贅沢を提供できないからです。
その贅沢とは、新鮮でおいしいものを食べること、忙しくしないで、ゆったりとした時間を自分自身が楽しむということです」
「シンプルなものを食べていたら、シンプルな病気にしかかからないと思います」
「料理を出すたびに、もっと工夫ができなかっただろうか、もっと気持ちを込められなかっただろうかという思いがわき、今まで一度も、これでいいという料理を作ったことがありません」
「家で家族のために料理をすることも大好きです」
「自分が食べておいしいと思うものだけ提供して、自分が食べたくない料理は、人には提供したくありません」
こんな李さんの言葉が、一つ一つ私の胸に響きます。

皆さんもこんな李さんの料理を食べにニュージーランドへ来ませんか!!


感謝に勝る能力無し!

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ニュージーランドのガーデンは今、花でいっぱい。



取れたぞ、取れたぞ!!永住権。感謝感謝の永住権。
ニュージーランドに来て1年半、初めは想像もしなかった永住権。
この国で実際に生活していく中で、仕事面の制約、経済的不利益など、外国人として暮ら
すことの不便さをひしひしと実感し、永住権(国籍と同等の権利)の取得を決心したのが1
年前の7月でした。
しかしながら、訪ね歩いた3ヶ所の移民コンサルタントの審査結果は、学歴、資格、資金
とも基準以下として、いずれも「取得不可」の判断でした。
それでも諦めきれず、わらをもすがる思いで行った4件目のコンサルタントが、「可能性あり
」の判断を出してくれたのです。
これに賭けてみることにしました。
しかし、あらゆる点で永住権取得条件は整っておらず、ないない尽くしで、今から考えれば
無謀な挑戦だったように思います。
永住権を取るための条件は複雑で、一口には説明できませんが、例えば学歴、職歴、資金
、資格、英語力などなど、それぞれ細かな基準に基づいてポイントを加算し、高い水準のポ
イントがなければ不可能とされています。
しかし私は、こうした目に見える形での価値判断とは全く無縁に生きてきました。
提出できる証明書など1枚の用意もないのです。
でも、できない事
を数え上げても意味がない!! この時私の頭に浮かんだ言葉は「生きるとは条件を超えて
生きること(坂田道信氏)」。

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まずNZQAという国家資格認定機関の資格審査をクリアするため、日本で調理師の免許を取る
ことが第一段階でした。
すぐに所轄の保険所に受験申し込みの電話をしたところ、すでに締め切り後で、次は来年まで
待たなければならないとのこと。
しかしこちらの事情を話すと、他県でも受験できることを教えてくださり、必要書類を用意してくれ
ました。
それを受けて、友人がまるで自分のことのように奔走してくれました。
日本中の県庁に問い合わせてくれ、あらゆる手続きと申し込みを済ませ、おまけに問題集まで
送ってくれたのです。
ありがたいことに、電話1本で居ながらにして受験準備が完了しました。
そして受験のため昨年
10月に帰国、お陰で無事調理師免許を取ることができました。
短い帰国でしたが、この間に何人かの方が講演会を開催してくださり、充実した日本の滞在にな
りました。
ところが、ニュージーランドに着くなり、空港で入国拒否に遭い、目の前が真っ暗になってしまいま
した。
これは私の単純なミスで、ニュージーランドへの再入国ビザの申請を忘れていたのでした。
1時間ほど空港で待たされ、やっとの思いで1ヶ月の期限付きの入国を認められましたが、こうなっ
ては永住権どころではありません。
とにかく1ヶ月以内に滞在延長できるビザを何とか取ることが急務になってしまいました。
そこでまず、移民専門の弁護士に駆け込んだところ、今回の日本への出国が正当だったことを証
明する必要があるとのこと。
日本での講演会の確認書を主催者に送ってもらったり、調理師受験の証明書を発行してもらったり
と、なんとか1ヶ月の期限内ぎりぎりに延長許可を取ることができました。
しかし、その移民専門の弁護士からは「あなたの経歴では絶対に永住権は取れません」という、とて
もショックな意見ももらってしまいました。
こんな時、ふと口を突いて出た言葉が「できない宿題はない」、そして和田重宏さんの「全力を出しき
って、精一杯の自分で応える」──もともと楽天家の私、良い方にしか考えないようにしています。



そして、その後は前回お知らせしたとおり、最大の難関だった英語のテストに四苦八苦の末、合格!! 
やれることは全てやって、後は天命を待つのみ。
ところがNZQAの資格審査が長引き、半年経っても結果が出ないのです。
いよいよ万事休すかと、半ば
諦めかけた6月中旬、ついに資格審査合格の通知が入り、ちょうど1年前に不可能と言われた審査基
準を、これで全部クリアすることができたのです! 
そして7月に移民局が申請を受理、8月にとうとう永住権取得!!

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まさに夢のような1年でした。
今こうして振り返ると、ニュージーランドでの生活基盤を支えてくれた中野さんとの出逢い、そして英語の
特訓をしてくれたスージー、大阪屋の弓削さん、日本の「わら」を守ってくれている山崎さんご夫妻、帰国の
たびに講演会を主催してくれた人達、講演会に来てくださった方々、わら通信の編集者とその読者、プロポ
リスを買ってくださった人達、日本から応援の手紙やEメールをくださった人達…。誰一人欠けても今の私
たちはなかったでしょう。
ニュージーランドに来て、人様との縁の中で生かされて生きる命である事をつくづく実感しています。まさに、
感謝感謝の永住権です。

大きな流れを感じたツアー!

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大きな流れを感じたツアー!

永住権のめども立ったころ、私たちがニュージーランドに来た意味や、こちらでの仕事のあり方を探るひとつの区切りとして企画したのが、今回のツアー“オーガニックな旅”でした。

私がこの国で出逢い、感動した人、学校、ショップ、レストラン、そして思想……そうした体験をまるごと凝縮したような内容で、企画そのものには自信がありました。しかし準備に手間取り、結果的に募集から開催までの期間がたった2ヶ月足らずという、またしても前例のない無謀な試みとなってしまいました。
わら通信やホームページで参加を呼びかけるものの、やはり現実は厳しく、予約はなかなか思うように入りません。


そんな折、私は突然歯の痛みに襲われました。
歯科のホームドクター・鈴木さんと相談した結果、すぐに帰国して治療するのがベストと判断し、急遽一時帰国を決意しました。
帰国するなら講演会を開き、同時にツアーの宣伝もできるとは思ったものの、この短期間でセッティングするのはほぼ不可能でした。
そんな時、天の助けか絶妙のタイミングで、日本からの講演依頼が何件か入ってきたのです。
結局、2週間の帰国期間中に、10ヶ所以上の講演会を組むことができました。

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帰国直前にニュージーランドでのホームドクター(シュタイナー医療を実践している医師)から、長時間飛行機に乗ることによるダメージを軽減する、レメディーというホメオパシー医療の薬を手渡されました。
このレメディーのお陰で頭痛も耳鳴りも全くなく、快適な空の旅ができました。

時差ボケもなく、到着したその日から、毎日毎夜大はりきりでしゃべり続けました。
しかし、さすがに過密スケジュールがたたってか、気がつくと3日目の夜の食事会の時にはとうとう声が出なくなり、翌日の講演会が危ぶまれるという事態になってしまいました。

主催者の鶴さんがすぐに師匠である矢山先生という方に電話して、受話器の向こうから気功による遠隔治療をしてくださいました。
するとなんと5分後には声が出るようになり、その後、鶴さんがくださった神農クリームと花の波動を転写したというフラワーエッセンスのお陰で、翌日の講演会では痛みもなく、いつもの大きな声が出せるようになっていました。

その後の3日間は歯の集中治療。これも鈴木さんの手腕とアーニカというレメディーのお陰で、出血と痛みによる肉体的ショックは最小限で済んだように感じています。今回の旅は、理論だけではなく、私の体で自然療法を実体験させてもらうチャンスを与えられたようでした。

こうして多くの縁ある人達との出会いがあり、歯の治療とともに充実した帰国となりました。
今回の帰国・講演会が縁で出会った人々は、どの方も魂の深いつながりを感じました。
そして、気がつくと8月のツアーは予約でいっぱいになっていたのです。
集まりが悪かった9月のツアーも、新婚旅行に知人、友人、親戚を同行して申し込んでくださった方がいて、こちらも定員に達し、ツアーは成立しました。

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今回のオーガニックツアーのハイライトのひとつは、自然科学では到底説明できないバイオダイナミック農法の実体験です。
この農法でよく使われる象徴的なものとして、宇宙エネルギーを集中させて作る調合剤があります。

まず、牛の角に牛糞を詰めて土中に半年間寝かせ、宇宙エネルギーを蓄えさせます。
それをホンの一握り、水を張った桶の中に入れ、一方向にかき混ぜます。
ロウトの形になるまで渦を作ると、水の中に宇宙空間が再現されます。
一旦その流れを止めて混沌の状態に戻し、また逆回りに渦を作る。このくり返しを1時間続け、牛の角の中に蓄えられた宇宙エネルギーを情報として水に伝えるのです。
その水を、プールに1滴の水を入れるぐらいの微量に希釈して、大地にまきます。

たったそれだけの量で大地そのものが健康になるというのですから、なんとも奇妙な信じられないような農法です。しかし、現在それを世界中で多くの農場が実践しています。

この農法で育てられた作物にはデミターというラベルがつけられ、欧米社会では最もレベルの高い有機農法の証として、信頼を得ています。「徹底的に稀釈して素材の物質性を排除し、霊魂化する」これは多くの治療効果をあげ、今世界で最も注目されているホメオパシー医療のレメディーの作り方と同じなのです。

シュタイナーの言うように、農、食、医、経済のあらゆる分野において、今後精神性や霊性抜きには語ることはできません。
それを実感し、体験することのできたツアーだったと思います。

私自身の体で効果を実証したシュタイナー医療、フラワーエッセンス、気の医療、ホメオパシー……それらの共通点を、WHO(世界保健機構)の新しい健康の定義の中にも見ることができます。
「健康とは身体的、精神的、社会的、かつ霊的に完全なひとつの幸福のダイナミカルな状態を意味し、決して病気や障害の不在を意味するものではない」──これが新しい定義であり、もはや霊性を無視しては健康を語り得ないことをはっきり認めています。

そしてもうひとつの共通点は、病気や体の痛みを「自分が自分の成長のため用意しておいた宿題」とする認識なのです。

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8月のツアーが無事に終わり、9月のツアーも定員に達し、最終準備に取りかかっていたとき、あのニューヨーク貿易センタービルの事件が発生してしまいました。

多くの人を不安にさせたこの事件の影響で、ツアーの参加者も半数以下に減り、私たちも対応に追われました。そしてその混乱の中、この事件は私にとってどんな意味を持つのだろうと考えました。
その答えを8月のツアー参加者である一人の若いお母さんからの手紙の中に見つける事ができました。
彼女は4歳のお子さんととてもイキイキとツアーを楽しんでいたのですが、その彼女が1度だけ私に愚痴ったことがありました。
「この子に手をあげる夫が憎い」──この言葉を聞いて私の脳裏に浮かんだのは、「正しさ暴力」。

私は今まで、自然食や環境運動をして不幸になった人をたくさん見てきました。
添加物、農薬、大量消費の愚かさを知り、環境保護や自然の流れに沿った生活のすばらしさを体験し、学びを重ねていく中で、これこそが最良の道であり、自分は正しいことをしているのだという確信を得るようになります。

それはそれで大切な事なのですが、今度は自分がこうして養ってきたものが真理だと思いこみ、その価値観や常識で他を批判し、裁くようになってしまいがちなのです。
自然食やエコロジーが目指すところは、人間の健康と平和にあるにも関わらず、家族や身近な人を裁いてしまい、「どうして分かってくれないの? わたしはこんなにがんばって“いいこと”をしてるのに」となってしまう。
裁かれ批判され、自分の存在を否定された人はたまったものではないでしょう。
自然食やエコロジー問題に限らず、こうした「正しさ暴力」によって、家族や身近な人ばかりではなく、自分も不幸にしていることが多くあるのです。

坂田道信さんは「真理は書物の中には無く、事実の中にあることを学びました。
真理は現実を変える力がなくてはなりません。
現実を変える力とは、縁ある人様を幸せにするということでもあります」と言っています。
人には学びがあり、学びは人間性を広く深くするためにあるはずです。

ここまで話したとき、彼女は涙とともに静かにうなずいてくれました。
そして「帰国後、家族仲良く幸せに暮らしています」という手紙が届いたのです。
私もこの手紙のお陰で、毎日の暮らしの中で起きていることも、あの悲惨なテロ事件と同じことだと、あらためて気がつきました。

──私は私の妻や子供に対して、私の人生で積み重ねてきた価値観や常識で裁きはしなかっただろうか?
家族ひとりひとりに対して命の尊厳を持って接してきただろうか?
逃げ場のない強圧的言葉で家族を悲しませてはいなかっただろうか?

「愛は近きより」──テロや戦争を平和に導くひとつの答え、それは日々の具体的な暮らしの中にあり、まさに真理に生きようとするなら、もっとも身近な縁ある人を幸せにすることである、と気づかされました。

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夏休み中には、日本から多くの留学生も来てくれました。
彼らは平日はホームステイして語学学校に通い、週末には私の家に集まってきます。
わが家はまるで合宿所のような大騒ぎで、久しぶりにとても心地の良い騒々しさを味わうことができました。

ニュージーランドの一般家庭はとても質素で、バスタブの入浴などは年に数回、もちろん朝シャンなんてもってのほか。
日本の当たり前がとても贅沢なことだと気づき、言葉も通じない、しかも他人の家、わがままが通らない生活をすることで、彼らは多くを学んでくれました。
そして、その不自由、不便さをもろともせず、短い留学期間を思いっきり楽しみ、いい思い出を持って帰ってくれました。

しかし、一方で「もう2度と来たくない」と言って帰った留学生もいました。
「こんなはずじゃなかった」「親に無理に来さされた」──不満・怠慢・失望とつながる見方。
「来ることができて幸せ、親に感謝しています」「来年も行きたいので、一生懸命お小遣いをためています」──感謝・意欲・成長とつながる見方。
生き方の悪循環と善循環。まさに、人生の縮図を見た思いがしました。

大人も子供も関係なく、「今やってることが自分のやりたいこと」と思いきれるかどうかが、いい時間を過ごせるかどうかのキーポイントなのでしょう。
せっかく縁あってニュージーランドまで来たのに不平を言う留学生に対して、私自身も善悪の価値判断で裁いていたのかもしれません。ひとつの大きな課題をもらった気がします。

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いずれにしても、7月の帰国から8月・9月のツアーで、新世紀の大きな胎動を感じることができました。
参加者の方々とともに、私自身も自分探しの旅ができたように思います。

私のこれからの暮らし方、ニュージーランドと日本の掛け橋になるということが見えかけてきました。
また、この間に新しい多くの心の友ができたことに感謝しています。
本当にありがたいことです。

『自分以外のどれだけ多くの人々の人生と運命に、どれだけ良き影響を与えることができたかどうか──人生の成功という言葉の定義にしたい』私の目標としている言葉です。

日本での「おいしく・たのしく・ありがたく」に、ニュージーランドでの「のんびり・おいしい・きもちいい」のモットーを上乗せして、私自身が毎日「お米さんありがとう、にんじんさんありがとう。お陽さま、雨さん、風さん、土さんありがとう」の気持ちで台所に立ち、そして何より自分のために、原点に戻ってビタミン愛を込めてたのしくおいしい料理を作りたいと、意を新たにしました。

初夏の花でいっぱいのニュージーランドより感謝を込めて。



第3回ニュージーランド人物列伝

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中野宏さん&桜井乃里子さん
ワンダーニュージーランド(旅行代理店)経営




中野さんとの出会いの始まりは、姫井由美子さんとその親友右遠和子さんに紹介していただいてからの事でした。
不安いっぱいでニュージーランドに着いたその日の夜、さっそく中野さんに連絡を取りました。

こちらの不安を察してか翌日すぐに時間を取ってくださり、中野さん、桜井さん、私とかおりの4人で「凛」という和食レストランで会うことになりました。
私たちは観光ビザしか持っていないこと、2年間は滞在して子供と共に暮らしたいこと、娘の藍を語学学校に通わせたのち、シュタイナースクールへ入学させたいことなど、今の現状と希望を話しました。

すると即座に「私の会社でワークビザを出しましょう。そうすれば2年間こちらにいることができますから」と、サラリと言ってくれたのです。
初対面の私たちになんの疑問も警戒感も持たず、ましてや恩着せがましさも全くなく、困ってる人がいれば手伝うのが当たり前、といった感じです。
ワークビザの取得はとても難しく、ビザを出してくれる会社に対してかなりの貢献と信用を得てからでないと、簡単には認めてもらえないと聞いていただけに、私たちは顔を見合わせ呆然としていました。

そんな私たちを気にもとめず、中野さんは「じゃあ、まず藍ちゃんの語学学校を探しましょう。
明日私の事務所に来てください。
それから家も一緒に探しましょう」と、まるで旧知の親友のようにあらゆる手助けを申し出てくれました。
その日「凛」で食べた石狩鍋のあったかさは、中野さんの優しさと共に生涯忘れられないものになりました。

翌日から、それこそ毎日のように私たちと共に動いてくれました。
藍の学校に始まり、家探し、銀行口座の開設、ワークビザの申請などなど、もう数え上げたらきりがありません。
英語のできない私たちに代わって、あらゆる交渉ごとに何度となく足を運んでくれたのです。

最近になって中野さんに、どうしてあの時あんなに良くしてくださったのですか?と聞いた事がありました。
中野さんはポツリと一言、「いい人の友達はいい人」。う〜ん…と思わずうなってしまいました。
どんな名言よりも深みのある言葉だとは思いませんか??

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中野さんがニュージーランドに来たのは13年前。
大学を出て一度は地元の銀行に就職したものの、29歳のときに退職、この国にやってきました。
ある定年退職者の「仕事一途に勤め上げたけれど、何も残らなかった」という手記を新聞で読んだのが、きっかけだったと言います。

ワーキングホリデイで1年間、ツアー会社などでアルバイトをしたのち、永住権を取得しました。
始めはワークビザ取得のつもりが、当時は永住権のほうが簡単だったらしく、バイト先の会社からの書類だけで取得できたのだそうです。
結局、気がついたらそのままニュージーランドに住んでいたというわけです。

中野さんは常に自分の存在を信じ、“成り行きに任せる”という自然体で生きています。
その生き方には、まさにこの国の国民性である「イージーゴーイング=こせこせしないでおおらかに生きる」をそのまま感じます。

ここクライストチャーチの旅行業界で中野さんのことを知らない人はなく、その誰からも“中野さんはものに動じない人”という感想がかえってきます。
何があってもどんなトラブルが起こっても「何とかなりますよ」、そして本当に何とかなってしまうから不思議です。
この世で起こったことは必ずこの世で解決できる。そういう安心感を、言葉ではなく、いつも存在そのもので示してくれます。

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そんな楽天家の中野さんを、仕事・生活の両面でサポートしているのが、パートナーの桜井乃里子さんです。
私たちや留学生にとっても、いつも笑顔で応えてくれる良き相談相手です。
生活面でのこまごましたことも、すべて桜井さんにアドバイスをもらいました。
女性でなければ気がつかないような細やかなこころ配りは、ワンダーニュージーにとって、大切な存在と言えます。

この中野さんと桜井さんの二人三脚の手助け無しでは、私たちのニュージーランド生活はあり得なかったと思います。
桜井さんもごく最近、2年がかりで苦労して永住権を取得されました。
中野さんとは4年前からのお付き合いですから、結婚をすれば簡単に取れたにも関わらず、彼女は“桜井乃里子”個人として取得されました。

永住権を取るために偽装結婚までする人がいる中で、お二人はあえて結婚という形を取らず、依存も支配もしない、お互いがお互いの尊厳を認め合うパートナーという関係の中で、個として自由に生きることを選んだのです。
こうした彼ららしいライフスタイルは、私達にまたひとつ見習うべき男女のあり方を教えてくれたように思います。

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これからの夢は?という問いかけに「目的を持ってニュージーに来る人の手助けがしたい」「誰もやった事のないツアーを創造していきたい」「私はこの国が好きだし、日本も大好き。だからこの国における日本人のイメージを良くしたい。
そして、お互いの国が理解し合えるように掛け橋になりたい」と、いつになく熱っぽく語ってくれました。

ツアーガイドを10年以上やってきて、その情熱を失わない彼はすごいと思うし尊敬できる、と桜井さんもうなずいていました。

このインタビューを通して、このお二人の夢の実現のお手伝いをしたいとあらためて感じました。

人生イメージどおり!

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人生イメージどおり!

私たちがニュージーランドに来て、早くも1年
が過ぎました。
想えば正直なところ、不安7割、希望3割だった
ような気がします。
ただ確実にあったのは、ニュージーランドでの
生活のイメージと「なんとかなる」という想い
だけでした。
だからニュージーランド行きのチケットを取っ
た時点で、すぐにオンボロトラックを買い、
それに生活必需品を満載して、さっさと
船便で現地に送ったのでした。
ニュージーランドで暮らすしかない状況をまず
作ってしまい、いわば背水の陣で挑んだという
わけです。
考えすぎて二の足を踏むより、とりあえずやり
たいと思ったことを思ったまま、勇気を出して
やってみよう。
そうすれば結果は後からついてくる。
しかもイメージどおりの結果が。
私たちが「わら」を始めたときも、そうだった
からです。
今までいろいろなことがうまくやってこれたのも、
たぶんヒラメキや直感をそのまま行動に移してき
たからだと思います。
よく考えて綿密な計画を立てようとすると、理論
や常識に支配されてしまい、どうもクリエイティ
ブな生き方ができにくいようです。
やりたいか、やりたくないかでなく、損か得かと
いう考え方に陥ってしまうからです。
その点、ヒラメキ・直感は「天の声」であり、創
造力は常識を打ち砕く力です。
その力の源は、楽しさ、おもしろさ。自分が楽しければ、情熱を持って行動できます。
人生は楽しむためのもの、そして個として立ち、違いを認め合うことなのでしょう。
こうやって自分を信じて行動していると、天も応援してくれるようです。
ただ無計画な分だけ効率も悪く、困難や苦労が多いのも確かです。
「わら」での15年間も、困難と失敗の連続でした。
でも桜沢如一氏の「人生の目的はやりたいことをやってやりぬき、愉快で楽しく自由に生きること。
そして人様に喜んでもらうこと」という言葉のおかげで、あらゆる困難を楽しめたと思います。
大好きな料理を楽しみながら提供しているうちに、たくさんのお客様が来てくれる。
手に負えないくらいお客様が増えてくると、全国から料理を学びたいと、研修生が助っ人に来てくれる。
「わら」の料理をもっと広めたいからと、講演の依頼も入ってくる。
日本中旅行ができて、行った先々でおいしい郷土料理にも出逢え、料理法まで学べる。
ついには私たちの料理の本まで出版される。本当に奇蹟のように結果がついてきたのです。
でも今から想えばやはり忙しすぎた、楽しむと言いながら、歯を食いしばってがんばったというのが実感です。
長男が留学して以来、私の中には「家族みんなでニュージーランドで暮らしたい」というイメージがずっとありました。
「わら」の経営は安定し、2冊目の料理本「わらのごはん」も大好評、講演依頼も多く、まさに絶好調の時です。
しかし「絶好調は下り坂の始まり」「もっともっとで焼きがまわる」こんな言葉がどこからともなく聞こえ、
「よし、今こそ手放すときだ」と決意。迷いはありませんでした。まさに時満ちての実行だったと思います。

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こちらに来てからもまた、アクシデントの連続でした。でもそのおかげで多くの素晴らしい出逢いがあり、私にとって大き
な収穫になりました。
2年のワークビザを申請したにも関わらず、1年の限定になってしまったことも、永住権取得への挑戦に踏み切る良い
きっかけだったと思います。
永住権取得──これが我が家の一大目標となりました。その目標達成のためには、1日中机に向かって勉強しなけれ
ばなりません。
それも最も嫌いな“テストのための勉強”です。まず調理師試験。これは去年、一時帰国して何とか取得。
次に私を悩ませたのが、IELTSという英語のテストです。
初めは英語圏に住んでいるし、その上個人レッスンも受けているんだから、数ヶ月もすれば何とかなるだろうくらいに
高をくくっていたのですが、それはとんでもないことでした。
レッスンを受け始めて3か月ほどたった頃、自分の英語力がほとんど向上していないことに気づき、落ち込むやら、慌て
るやら……それから気合いを入れ直して必死になってやったのですが、時間ばかりが過ぎていっこうに上達しません。
それに引き替え子供たちはどんどん上達して行き、差は拡がるばかりでした。
今までの私は、思い立ったら即実行、即結果というパターンで生きてきたので、やってもやっても結果の出ない状況は、
本当につらいものでした。
こんなに挫折感を味わったのは、今回が初めての経験です。
「できない宿題はない」と何度も何度も自分に言い聞かせては、レッスンを受け、辞書を引き、テープを繰り返し聞くの
ですが、まるで泥沼でもがいているようです。
受験4か月前からIELTSのための集中講座に切り替えたのですが、これはもう英語の勉強と言うよりは、テストのため
の徹底した傾向と対策・攻略法という、日本の受験対策そのものでした。
私が子供たちをニュージーランドに留学させた一番の理由は、日本の受験制度に疑問を持っていたからであり、テストで
人を評価せず、個性を尊重して自由でのびのびとした教育理念を持つシュタイナースクールにどうしても通わせたいとの
想いからだったのです。
皮肉にもその私が、“テストのための勉強”をしています。「こんなはずじゃなかった、こんなことをするために来たのか」
いやいや「今やっていることが、自分のやりたいこと」この自問自答の繰り返しの毎日……でも、やるしかない。このテス
トをクリアすることが、永住権申請の絶対条件なのです。
こんなに一生懸命に、しかもプレッシャーの中で勉強したのも初めてでした。
毎晩のように英語の夢を見ました。
でもこの重圧と必死に闘っている私自身を、どこかでもう一人の自分が楽しんでいたような気もします。
そしていよいよ自信のないまま迎えた試験日は、奇しくもかおりの誕生日でした。
私とかおり、長男と次男、家族4人で試験に臨みます。
始まってみると案の定、難しい問題ばかり。

先へ進むたび「もうだめだ!」と絶望し、いやいや「Ne
ver give up!」と気を取り直しながらの悪戦
苦闘、悪夢のような3時間でした。
終わった後の自己採点では、残念なことに最悪
の結果でした。
すっかり気落ちした私は、その夜、朝まで一睡も
できませんでした。
「この1年間はいったい何だったのだろう……」い
ろんな想いが頭をめぐります。
一番気になったのは、私たち以上に私たちのこと
を想って一生懸命教えてくれたスージーのことでした。
彼女の誠意と熱意に何とか報いたい。
もちろん私の実力を一番よく知っているのは彼女だから、
落ちることも覚悟しているだろうけれど、それでも
万が一の希望を持って、心から合格を祈ってくれて
いるはずです。
せめて発表までの1週間、良いイメージングをしてみようと思い、具体的な得点数まではっきり決めて、テストに合格する
イメージを毎日何回も心に思い描くようにしました。
果たしてその1週間後、いよいよ通知が送られてきました。
留学して3年以上になる長男を始め、次男とかおりも揃ってみごと合格です。
そして4人の中でいつもビリだった私は……恐る恐るスコア表を開けてみると、「聞く」「読む」「書く」「話す」の4部門とも、な
んと私が思い描いたイメージどおりの得点! 合格です! 我が目を疑い、何度も何度も自分の名前と受験番号と得点とを、
指で押さえながら確認しました。
夢じゃない、やはり合格している! 飛び上がって、飛び跳ねて、かおりと抱き合い、「ありがとう、ありがとう、ありがとう!」
すぐにスージーに電話をしました。
受話器の向こうで飛び跳ねているのが見えるようです。
興奮して「ミラクル! ミラクル!」を連発し、そして最後には「エンジェルカムダウン、康弘にはいつも神様がついているんだ
ネ」と言ってくれました。
まさに奇蹟、天にも昇る気分です。
こうしてめでたくIELTSに合格しましたが、その間にもいろいろな出来事がありました。
もちろんトラブルも。我が家には天使ばかりではなく、いじわる悪魔も時々顔を出すようです。
昨年の9月、学校から通知があり、このままでは長男の卒業は認められないと言われて大慌て。
これもまたスージー&スティーブン夫婦の助けがあり、なんとか卒業式4日前にギリギリで卒業許可をもらって一安心、な
んていうこともありました。
他にも一番困ったのは、調理師免許を取るために
一時帰国した際、私たち夫婦のビザに不備があり、
ニュージーランドへの再入国を拒否されてしまった
ことです。
空港で止められ、あわや日本へ強制退去かと思わ
れましたが、講演会の主催者の人たちがすぐに日
本から確認書を送ってくださり、助かりました。
結果的にはどんな問題も、いつも紙一重のところで
クリアして、今日に至っているというわけです。


「奇蹟」──小林正観

こうでなければならないと思って始まる苦悩
こうなったらうれしい、
ああなったら楽しいと思って実現する不思議
訪れる奇蹟

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半年に及ぶ英語の猛勉強の合間にも日本からのお客様がたくさん来てくださいました。
京都から来てくださった奥山さんのグループは、皆さんベジタリアンだったので、B&Bを借り切って自炊しながらの旅でした。
オーガニックショップやフリーマーケットで買い物をしたり、私の家で現地の食材を使っての料理教室も開きました。
貸し切りバスの中ではガイドを務めさせていただいたのですが、いつの間にやら私の独演会になってしまっていたり、ベジタリ
アンだったのにいっしょに貝掘りに行き、シーフードサラダを作ったり、天然のアワビでお刺身を堪能したりと、ちょっと調子に乗り
すぎたかなぁ、ゴメンナサイ。
わらNZ第1号のお客様だった片岡夫妻は、すっかりニュージーランドにはまってしまい、今度はご両親を連れてやって来てくれ
ました。
彼らには、ホリデーで留守になっている一般家庭を借りて、生きたニュージーランド生活を体験してもらいました。
後半は、私たち一家と一緒に、北島周遊の旅に出かけました。
なにせ上は70才から下は13才という、総勢9人の大キャラバン。
とても楽しい珍道中になりました。
ありがたいことに、こうして日本から訪ねてきてくださる人たちのおかげで、収入のあてのなかった我が家にも、少しずつ利益が
出るようになりました。
前号でご紹介したプロポリスも大好評で、「調子が良くなりました」「花粉症・水虫が楽になりました」「市価の4分の1なので本
当に助かります」といったお礼とともに、注文してくださる方も増え、ありがたく思っています。
日本を離れて、果たして生業になる仕事に出逢えるのだろうかと不安でしたが、こうして旅の案内や掘り出し物の紹介などで、
自分たちが楽しみながら人様にも喜んでいただき、収入にもつながるのですから、こんなにいいことはありません。

日本ではストレスがいっぱいだったかおりも、こちらに
来てからは明るく、少し若返ったようです。
個人主義のこの国では、人目を気にすることも、
余計なよろいで身を守る必要もなく、心も軽くなっ
たのでしょう。
そういえば、こんなことがありました。
先日、引っ越しの挨拶をしに、家族全員で隣の家
を訪ねたときのこと、私たちを見るなり「お子さん
が4人もいていいですね」とにこやかに一言。
いったい何を言っているのか理解できず問い返し
てみると、なんとかおりが私の長女に見えたらしいのです。
一同大爆笑。
「勘違いもはなはだしいですよ」と言いながら、思わずニン
マリのかおりでした。
私自身もそうです。こちらに来てからは毎日、料理を自分と家族のためだけに作ることができます。毎朝、子供たちのお弁当
のおにぎりを作ることが日課になっています。
私にとって、こんなに満ち足りた1日のスタートはありません。
最近、何に対してなのか、またどうしてなのかは分からないのですが、「ありがとう」という言葉が、口をついてよく出てくるよう
になりました。そんなときは、体中がジーンとして、とても気持ちがいいのです。
「がんばる」「忙しく生きる」から、「自分から楽しむ」「のんびりと」に少しずつシフトできるようになってきたのでしょう。
おかげで将来の夢もどんどんと膨らんできます。
ニュージーランドは、天才ゴーギャンが愛したタヒチや、天国に一番近い島ニューカレドニアがある南太平洋諸島のすぐ近くです。そんな夢の島々へ、まるで温泉旅行くらいの気安さで行くことができます。
IELTS合格祝いに、今年はぜひ泳ぎに行くゾ! そしてもっともっと英語を勉強して、いつか夫婦で世界一周の旅をしよう!
料理教室をしながら国々をめぐり、世界中のおいしいものを食べ尽くす……考えただけでも楽しくなってきます。
「人生は楽しむために」そして「人生イメージどおり」です。あなたの人生のイメージは何ですか? ニュージーランドの国民性
は「イージーゴーイング」、せかせかしない、こだわらない、ここには人が人として生きる豊かさがあります。
そしてたくさんの手つかずの大自然があります。
それは神々しいまでに威厳のある風景です。
ここは、人生のイメージを体現するのにぴったりの場所です。
「旅」とは「他火」、他者の火(光)に出逢うこと。
「観光」とは他者(他の地)の光(長所)を観ることであり、他の地で生活する人の輝き(光)を観ること、そしてその光を分けて
いただくことなのです。
私が出逢った素晴らしい人々に、またシュタイナースクールやバイオダイナミックス農法、オーガニックレストラン、フリーマー
ケット等に触れ、私がここで観て、体験して、感動し、分け与えていただいた「光」を、みなさんともぜひ分かち合いたいと思う
のです。
あなたが「ニュージーランドに行ってみたい」と思ったなら、もうすでにその思いは50%叶っています。
残りの50%は、今あなたの持っているしがらみと執着を手放すことです。
それができれば、夢と同時に自由もオマケでついてきます。
手放すことが、楽しい人生と自由への第一歩です。
その時「だって」「でも」「しかし」という言葉が浮かんだとしたら、できない理由を捜すのが好きな人。
条件が整うまで待っていても、何も変わりません。
生きていくということは、自分の持って生まれた条件を越えることではないでしょうか。
さぁ、自分探しの「他火」に出かけましょう。
私たちが精一杯そのお手伝いをさせていただきます。

ニュージーランド人物列伝2

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ディビット&久枝・リンチご夫妻
B&B経営・合気道家



今回はニュージーランドの北島にあるコロマンデル半島でB&Bとファームステイを経営するディビット&久枝・リ
ンチさんご夫妻をご紹介します。
このご夫婦との出逢いの始まりは、エコロジー事業研究会の仲間である藤田さんに紹介していただいてからのこ
とでした。
ディビットさんに対して私がまず尊敬の念を抱いたのは、35年の間、合気道一筋に生きてこられたこと、一時期を
除いて、その指導を生業として成り立ってきたことです。
そして何より驚き、かつ共感したことは、彼の道場ではいっさい段位を与えないことでした。
段位を与えることで道場は生徒に対して絶対的優位に立ち、知らず知らずのうちに生徒を支配してしまいます。
そして生徒もまた道場の権威に依存するようになってしまいます。
それは他の武道や茶道、華道においても同じです。
日本文化はこれまで、家元制度によってそれらを維持・継承してきました。
しかし同時に、こうした支配と依存の関係の上で成り立ってきたとも言えます。
今まで誰もそのことには触れず、疑問も持たずに従ってきました。
しかし道場は本来、同じ道を目指すもの
同志が出逢い、同じ魂のレベルで影響しあってお互いを高めあう場であるべきと考えるディビットさんは、自分の道
場からはそうした権威を排除し、支配や依存のない、自由と調和を体得する場にしたのです。
まさにそれこそが、他と和し自然と和する合気道の根本精神だからです。
彼は伝統的な家元制度の矛盾に気づき、自ら模範を示したパイオニアなのです。
初めての訪問の時、私たちが到着すると「いらっしゃいませ。お疲れになったでしょう」と、やさしくにこやかに日本語で
出迎えてくれました。
思った通りの方でした。
自分を主張していないのに大きな存在感、それでいて威圧感もなく、全く気を遣わせない、さわやかな空気のような人でした。
明るいうちにまずブッシュと滝に案内してくださり、夜は夜で珍しい土ホタルを見に連れていってくださいました。
そして少しでも時間があると、合気道教室が始まります。
子供たちが歓声を上げるたびに、目を輝かせながら、まるで小さな子供に手品を見せて喜ばせているかのように、次
から次へと技を教えてくれます。
子供たちも大喜びでしたが、誰より楽しそうなのがディビットさんご本人。
合気道が好きで好きでたまらないという感じでした。
まさに永遠の少年を見たようです。
若くして日本文化に興味を持ち、24才で来日、合気道の門をたたいた彼は、帰国後ニュージーランドに初めて合気
道を紹介し、その普及に貢献しました。
久枝さんと結婚後再び来日、ニュージーランド政府観光局の初代局長を務めるかたわら、植芝吉祥丸、藤平光一、
清水健二、塩田剛三らのもとで修業を積み、1988年、オークランドに「林智リンチ道場」を開きました。
そこでは合気道のみならず、庭に自作の日本庭園を造るなど、広く日本文化の普及に務めたそうです。
そして2年前、それらすべてを手放し、川あり滝あり山あり原生林あり、そして1日中陽のあたる明るい家と農場のある、
この緑豊かなコロマンデルに移り住み、天地人一体を実現する、真の合気の求道を目指しているのです。
日本で生まれた合気道が9000km離れたニュージーラ
ンドで、ディビットさんによって、新世紀型に進化して
いるように感じられました。
毎日大好きな合気道をやっていると、どんどん夢とア
イデアが沸いてくるのだと言います。
そして実行に移せば、それらは確実に現実のものにな
ってきたと、うれしそうに語ってくれます。
そして今、彼の頭の中は、新しく建設する道場の構想で
溢れています。
私が「この地に道場を建てるのであればドームハウス
がいいのでは」と提案したところ、すぐに興味を持ち、さ
っそくインターネットでアメリカのメーカーから資料を引き
出してしまうという情熱と行動力の持ち主です。
彼にとって合気道はまさに天命なのでしょう。
しかし、夢とアイデアだけでは生活していけるはずがあ
りません。
この部分を見事に支えてきたのが、久枝さんです。
細かいことはおっしゃいませんが、道場にとって大きな収入源である段位を与えることを一切しなかったのですから、
それは大変なことだったと思います。
5コロマンデルに移ってからも、収入は久栄さんの切り盛りするB&Bが担っているようです。
しかし生活のためという悲壮感はまるでなく、あるがままの現実を肯定しながら、そこに自分の夢を上乗せしていきいき
と生きているのです。その様子が私たちにもありありと伝わり、とてもさわやかでした。
60才にして新天地を目指し、夫婦で夢に向かって楽しみながら挑戦しているその姿は、私たちにさらなる希望を与えて
くれました。
私たちは、また目標とするご夫婦に出逢えたのです。
ご夫妻が初めてこの地を訪れたとき、直感の鋭い久枝さんは、白い光が立ち昇る光景を見たそうです。
そしてディビットさんは手つかずの原生林と滝に、すっかり魅せられてしまったと言います。
それもそのはず、ここは先住民のマオリ人に「オウヌオラ──命を飲む所」と呼ばれていた場所だったのです。
中野裕弓さんの提案する「新世紀波乗り法」というのがあります。

1、毎日、忙しすぎないように
2、まずは自分の心を自分で満たすことに真剣に取り組む
3、毎日、もう一人の自分と対話する時間を作る

まさにここは、その波乗りに最高のポイントだと言えるでしょう。
あなたもこの波乗りに参加してみませんか?

行ってきました!ニュージーランド

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〜ツアー体験者のおたよりから〜
●川相佐知子さん
──街のスーパーやオーガニックのお店、お豆腐屋さん等、観光客の行かない所を案内してもらったのが楽しか
ったです。
珍しい品を教えてくださり、美味しいものが食べられるのが楽しみです──料理教室も楽しくきびしくお教えくださっ
たのも、ありがたい事でした。

●大久保悦子さん
普通のツアーでは行けない所に連れて行って頂けてうれしく思っております。
また、家族の暖かさ、本当に仲良く一家で客をもてなす心、自然でとても感激しました──この様なツアーはどこに
もないと思います。

●祝部節子さん
──日曜日のみの市場、沢山の人のにぎわいでまるで東寺の弘法さんのようで、活気があり楽しい体験でした。
──B&Bのウェンディーさん宅も、映画の中のお宅のようで、そこで少しの間でも生活できたことはとても幸せでした。

●高橋佐喜子さん
──今まで日本の中だけの、井の中の蛙とでも申しましょうか、視野の狭い所で生きている自分の発見。
考え方、生き方等の軌道修正をする良い機会でもあったと思われます。
この世に与えられた命をいかに生きるかということを考えるよいカンフル剤でした。

●田上礼子さん
──毎日が楽しくすばらしい事ばかりでした。
(一般の)料理教室では習えない、食材の生きた、元気になる、気の入った料理法を教えていただきました。

●佐竹祥子さん
──マウントクックでセスナが旋回して眺めた時は感動で涙が出るほどでした。
ミルフォードサウンドの何とも言えない凄さ。
テカポ湖の色の美しさ。
アカロアでイルカと一緒とは行かなかったけど泳いだこと。
羊にキスが出来たこと。
──『生かされているんだ!』と大地にしっかり足を踏み締めて、生命一杯生きようと。
忘れかけたら、ニュージーランドの旅で感じたことを思い出して。

●植田敏子さん
──「念ずれば通ず、花開く」をまた実感として、とらえられました。
──これからも家族は勿論のこと、世の人の幸せにつながるように生きて行く所存です。

●奥山圭子さん
──旅行中は11名の健康が一番気掛かりでしたが、それも自炊のおかげで、全員が元気で楽しい旅を続けられました。
──ニュージーランドの持つ気(プラーナ)がとても美しい力強いもので、癒されていたのだと思います。

●片岡要さん/陽子さん
──楽しみと不安が入り交じっていましたが、康弘さんの「大丈夫、大丈夫」と皆さんの笑顔に接し、年寄り夫婦も
「ヨシ! 楽しむぞ!」とリラックスできました。
──いろんな所へ連れて行って戴きましたが、もう夢のような毎日でした。
スージーさんの家、羊の毛刈りショー、高原列車、ジェットボート、オットセイ、岩場の風、温泉、滝、国会議事堂、バン
ジージャンプ、オークランド、どれ一つ取っても、もう本当に帰りたくなかった。

●片岡佳香里さん
──一番印象的だったのは、あのイルカの大群に出逢えたことでした。
もうあきらめかけていたのに、突然9頭ものイルカが現れて、次々とジャンプをくり返してくれた時の驚きと喜びは忘れ
ることができません。
あの時私がホイッスルを吹いて呼んだから、イルカたちは出てきてくれたんだと、私は今でも信じています。
イルカと心が通じた気がして、すごくうれしかった。

合い言葉は「ついてるネ!」

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トラブル続きだった去年のつらく長い冬の季節を経て、ようやく実現したニュージーランドでの生活。
春爛漫のウキウキ気分もつかの間、冬の到来とともに、またまたつらい試練の季節が私たちを
苦しませました。でも、ニュージーランドはもうすぐ春。1年に2度も冬の辛さを味わった私たちですが、
同じようにまた、2度目の春を迎えようとしています。ついてるネ!!

トラブルに継ぐトラブルにガックリ

たくさんの夢と希望を抱えて、とにかくやってきたニュージーランドですが、まず直面したのが
ビザ取得の問題でした。中野さんとの出会いによって、大きな可能性が開けたまでは良かったのですが、
予想に反してなかなかビザをおろしてもらえません。4か月も待たされたあげく、ようやく取得できたと
思ったら、有効期限1年という条件つきでした。とりあえずはホッとしたものの、すぐにでも次のビザの
更新に向けて準備を始めないと、間に合わないという状況です。あ0もううんざりだ。
こんなことをいったいいつまでくりかえさなければならないのか……。

そうした見えない権威と悪戦苦闘を続けている間、実生活の中でもいろいろな困難にぶつかり通しでした。
まず困ったのは、日本から船で送ってとっくに到着しているはずの車が、なかなか引き取らせて
もらえなかったことです。国内基準適合検査をクリアするために手間取り、その間はずっと車のない
不自由な生活を強いられてきました。やっと車が来たと思ったら、今度はガソリンスタンドの洗車機で
バックミラーをもぎ取られ、ボディーまでへこまされるというアクシデント。

洗車機はドライバーの自己責任において使うというのが常識のこの国では、一切の保証もないばかりか、
洗車料金までしっかり取られてしまいました。他にも、MDを含むカーオーディオ一式を、ほんの10分
ほど目を離した隙にまるごと持って行かれてしまったこともありました。いずれも、結果的には私の
不注意と言ってしまえばそれまでですが、毎日毎日「そんなバカな!」の連続です。

車と言えば、ニュージーランドでの運転免許取得にも苦労させられました。ふだん乗り慣れている私や
長男はまだ良かったのですが、これまで信号などほとんどない「わら」近辺でしか運転したことのない
かおりにとっては、高いハードルだったようです。日本と法規が違う上、様々な信号機や、3車線や
4車線もある車道に慣れることから、まず始めなければなりません。私が横について特訓をしたのですが、まさに命がけで生きた心地がしません。
つい理性を失って、大声で叱りつけたり暴言を吐いたりするものだから、かおりもすっかりおびえ、
萎縮する一方です。ついには免許をあきらめようかと言い出すほど、落ち込んでしまいました。
身近な人間に教えることの難しさを学んだと同時に、実に貴重な体験でした。それでもようやく、
何とか3人揃って免許を取ることができて大いに喜んだわけですが、しかしさらなる難問が私たちを
待ち受けていたのです。

シュタイナー危機一髪!

ニュージーランド渡航に際して、大きな問題のひとつだったのが、長女・藍のシュタイナースクール入学の
件でした。スクールが入学許可を出さない限り、当然藍を連れて渡航するわけにはいきません。
そこで出発前に交渉し、入学許可を取り付けました。その条件は、両親がニュージーランドで一緒に
暮らし、ワークビザを取得すること、それさえクリアされればすぐに入学できるはずでした。ところが、
いざビザが取れて入学を申請すると、スクール側から突然、高いレベルの英語力を求めてきたのです。
この条件が満たされない限り、今後一切、交渉には応じられないという問答無用の返事でした。
これでは全く話が違うじゃないか! これが、理想の教育と信じ、20年間憧れてきたシュタイナースクールの
対応なのかと、一瞬目の前が真っ暗になりました。

我が家から見える風景。刻々と表情を変える景色は、いつまでも見飽きない。
そしてその頃、次男の耕太も英語力の問題で苦しんでいました。スクールの授業についていけないばかりか
友達もできず、ますます取り残されるという悪循環に困りはてていたのです。日常の会話はカタコトでも
何とかなりますが、英語での授業を理解するとなると並大抵ではありません。留学生というハンディは
認めてもらえないのです。かといって一体どうすればいいのか、見当もつきません。藍の入学問題にからんで、
英語力の問題が火急の重大事として立ちはだかったのです。

「ついてるネ」とこんな時こそ言ってみよう

「どう考えてもついているとは思えないことが起こっても、『ついてるネ』と言おうよ」
──斉藤一人さんのこんな言葉をふいに思い出しました。しかしこんな状況の中でその言葉を口にすることは、
なかなかできることではありませんでした。でもある時「ついてるネ」と声に出して言ってみると、フッと
肩の力が抜けた気がしました。その瞬間、今まで私を勇気づけてくれた言葉が、次々と溢れ出てきました。
「だって、でも、しかしは言わない」「最善観、最善観」「難有り、即ち有り難し」などなど……。

日本を発つとき、“Le'ts agree to disagree”という言葉を贈ってくださった方がいました。
「お互いに意見が違うことを認め合おうよ」今まさに、私たち家族全員が日々の生活の中で、この命題を
突き付けられていると言えます。今までの常識や正義観が通用しない異国の地に飛び込んでいったのは、
誰でもない自分自身の意志なのですから、このことに正面から向き合おうと改めて思い直すことが、
その時できたのです。こうしていったんポジティブに転換すると、不思議なことにあらゆる心配事や問題が、
知らず知らず解決に向かい始めました。

ビッグファミリー、現わる!

シュタイナースクール入学の件で、中野さんに藍の通う語学学校へ相談に行ってもらった時、応対してくれた
スージーという女性との出逢いが、事態を大きく変えるきっかけとなりました。彼女は、以前シュタイナーで
先生をやっていた人で、2人の子供もシュタイナーに通わせていることもあり、スクールの事情に通じていました。
話をすると彼女はすぐに、藍の入学に協力を申し出てくれたのです。
さらに中野さんの知り合いで、シュタイナーのPTA役員をしているコリーンという方も加わり、この強力な
チームでスクールと交渉してくれることになりました。間もなく“I'm Sorry”の言葉とともに、
シュタイナースクールから入学許可の通知が届きました。すごい!

これで晴れて、藍もシュタイナースクールに通い始めることができました。しかし英語力の問題は残されたまま
です。スージーに相談してみたところ、藍と耕太の放課後の個人レッスンを2つ返事で引き受けてくれました。
そしてついでに、私たち夫婦もまとめて面倒を見てもらえることになったのです。
というわけで、今では親子4人がスージーの家のダイニングテーブルを囲んで、英語のレッスンを受けています。
イングリッシュティーを飲みながら、緑いっぱいの庭には木漏れ日が差し、小鳥がさえずっている……
私たちにとってはまさに至福のひと時、なんと満ち足りているのだろう! 40歳を過ぎて、子供たちと一緒に
学生気分を楽しませてもらっているのです。

スージーとの出逢いは、ほかにも驚くべき展開を孕んでいました。
私がかねてから、ニュージーランドに来たらぜひ会ってみたいと思っていた人物の一人に、ピーター・プロクター
という人がいます。ニュージーランドにおけるバイオダイナミックス農法の第一人者で、その理論と実績は
世界的評価を受けています。また、農薬の多投によって死滅寸前になったインドの農地を蘇らせるプロジェクトの
指導者としても、活躍されている方です。

驚いたことに、スージーのご主人のスティーブンは、なんとそのプロクター氏の息子だったのです。
しかも彼は2年前、25エーカーの土地を購入し、バイオダイナミックス農法による農場を始めたばかりだと
言います。何という縁でしょう。尊敬するプロクター氏の実子スティーブンとともに、土地に生命をよみがえらせる
という土づくりを1から学ばせてもらうチャンスを与えられたのです。
不思議な縁はまだまだ続きます。藍の担任になったトーマス先生が、これまたスティーブンの兄弟であったばかりか、
長男・謙雄が以前ホームステイしていた先が、そのトーマス先生の前妻ジョアンナのお宅だったのです。
謙雄は1年もの間、彼の子供2人と生活をともにしていたというのですから、驚きです。
この一連のつながりに感動したスージーが言いました。「私たちはビッグファミリーなんだね!」

めぐり逢いのふしぎに手をあわせよう(坂村真氏)

素敵な出逢いは他にもたくさんありました。まず、後ほど詳しく紹介する「大阪屋」の弓削さんご夫妻。
謙雄と耕太が留学の際にガーディアン(保護者)になっていただいていた方で、謙雄は今、彼のお店で
アルバイトをさせてもらっています。

それに有為さんという女性。中野さんのところで、彼女がたまたま「わら通信」を見たのがきっかけで知り合う
ことになったのですが、実は彼女、私が最も興味を持っている思想家クリシュナ・ムルティーの研究家で、
名前だけは以前からよく知っていた人だったのです。現在は子供の教育のためにクライストチャーチに
落ち着いていますが、以前は世界中を旅しておいしいレストランをさんざん食べ尽くしてきたという人です。
私の上を行く食いしんぼうで、ロンドンでは自然食レストランを経営していたこともあったそうです。


そもそも庭園のように美しいクライストチャーチにあって、ひときわ美しいモナベール庭園。
さらに最近出逢ったディビッド&久栄リンチご夫妻は、北島のコロマンデル半島で、合気道と農場を中心とした
大自然ハーモニーセンターを創り始めたという、これまた興味深いご夫婦です。
おもしろがって生きていると、おもしろがって生きている人にどんどんめぐり逢えるということを、つくづく
実感しました。そして、出逢うべき人とは必ずいつか出逢うことができる、どこかでみんながつながっているんだ
と思うと、感動と喜びに包まれます。
まず中野さんと出逢ってビザ取得の道が開け、スージーに出逢ってシュタイナースクールの門と言葉の壁が
開かれ、さらにスティーブンと出逢って、バイオダイナミックス農法の体験という新しい可能性が開けようと
しているのです。

自由を我が手に!イチかバチかの挑戦

家を借りることから始まり、電話を付け、銀行口座を開き、車の保険に入り、運転免許を取得し……と、
基本的な生活基盤も整った今、残る心配事は、期限が10か月に迫ったビザのことだけです。
そこで私はついに、永住権取得に挑戦しようと決心しました。これがあれば家族全員、ニュージーランドと
日本のどちらででも、生活と仕事の選択ができるなど、ワークビザとは比べ物にならない有利な待遇が約束される
のです。しかし当然、その取得条件はたいへん厳しいものです。しかもその第一基準は学歴と資格、
私はそのどれひとつ持ち合わせていません。これまで、人をレッテルで判断するなんてばかばかしい、
必要なのは愛情と誠意だけだと信じて生きてきた人間です。これは、私にとって大きなショックでした。

でもこんなことでくじけるわけにはいきません。今大事なことは、何が何でもここで自由に暮らしていくこと
なのです。何としても、ニュージーランド政府に私という人間を認めさせよう、判断の基準が肩書きだという
のなら、資格でも何でも取ってやると、イチかバチかの挑戦を始めることにしました。そんなわけで、
今、私たち夫婦はいくつかの資格を取るために、猛勉強中なのです。

そして、もうすぐ春……

こうして私たち家族は今、長い長い冬をくぐり抜け、ようやく春のきざしを感じています。
そんな中で思い出されたのが、出国前に中野祐弓さんからいただいた手紙の言葉です。「無関心さは、
夢に向かって邁進しようとするエネルギーをいつのまにか奪い取ってしまうもののようです。(中略)違う
個性を尊重しながら、お互いの存在を楽しみあえたらすてきですね。かといって、仲良しクラブ的に
甘ったれた人間関係からは、新しいエネルギーが生まれません。表面上仲良く見せる仮面家族も、
もう流行りませんね。皆が本音で生き始めているからです。」胸に突き刺さる思いで読み返しました。
振り返ってみると、結局私はなかよしクラブ的家族関係で、自分を納得させようともがいていただけだったかも
しれません。これからは、日常に起こるあらゆる問題から決して逃げることなく対峙していこうと、
つくづく感じさせられました。さらには、そのこと自体を心の底から楽しめるようになれたら、最高ですね。

ニュージーランドからこんにちわ!

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4月4日に日本を発って、早くも2カ月が過ぎようとしています。
不安と期待の入り混じった複雑な心境で出発したのが、ずいぶん前のような気がします。

24年前、桜沢如一氏の「世界無銭旅行」という本を読んだことがありました。
それによれば、玄米を食べて自由人になれば、一文無しでも世界旅行ができるというのです。
いつかはそうなりたいという希望を抱きつつも、それは桜沢という天才だからできたことで、
我々のような凡人には実現不可能な夢物語だというのが、正直な感想でした。
私はその時、「無銭」ということを物理的にしか考えていなかったのです。

しかし、今ニュージーランドに来て、初めてこの本の真意が理解できたように思います。
今回ニュージーランドに来られたのは、決して物理的条件が整っていたからではないのです。
「どうしても行きたい、子供達とニュージーランドで暮らしたい」という強い気持ちがまずあって、
それをずっと願い続けた結果、さまざまな物理的条件はあとからついてきたのだと思います。
想えば、氏の「食べ物に感謝することで運命が変わる、夢がかなう」という言葉こそが、
今まで私たちや「わら」を支えてきてくれたのでした。

去年、ニュージーランドに行こうと決めてから、いろいろなことがありました。
2000年問題の対策、「わらのごはん」の出版、ドームハウスの建設、それぞれが大変な波乱と
困難に満ちていました。しかも今年になってから、長期ビザ取得がとても困難であると知らされて……。
何度もニュージーランド行きをあきらめなければならない状況に追い込まれました。

ある時、すっかり弱気になって、つい弱音を吐いてしまったことがありました。
「ニュージーランド行きは、もう無理なのかな」するとそれを聞いたある人が一言、
「どうなるのかではなく、どうしたいのかということでしょう」その言葉で、はっと目が覚めました。
度重なるアクシデントで、イメージそのものを思い描くことを忘れてしまっていたのです。

「よし、4月上旬までに出発する!」まずそう決めました。それまでの期間、ニュージーランドでの生活を
イメージしながら全力でやれるだけやろう、ビザが取れなくてもとにかく出発しよう、と決意しました。
 まず必要なのは、移民局への推薦状です。「わら」のお客様、関係者、知人、あらゆる人に推薦のお願いを
出しました。おかげさまで、300通以上もの推薦状が寄せられました。

数え切れないくらいの応援や励ましのメッセージとともに。そのたび、ただただありがたくて、
涙があふれました。目に見えない素晴らしいプレゼントです。
それはかつて私が、師・小川法慶先生からいただいた「料理のこころ」と同じく、形はないけれど
無くなることのない、一生の宝物です。もしニュージーランドの長期滞在が駄目になったとしても、
もうこれで充分とさえ思えました。こうなったら、もう怖いものなしです。
 結局、出発までビザ取得についての具体的な進展はなく、何の保証も無いままでしたが、
予定通りニュージーランドに向けて出発したのでした。

到着翌日、まず知人から紹介していただいた中野宏さんという人に会いに行きました。
10年以上ニュージーランドに住み、旅行代理店を経営しているという人です。
今までの経過をいろいろと話して相談したところ、なんと中野さんの会社で、ジョブオファーという
雇用証明書を出してくれると言うのです。このジョブオファーがあれば、ワークビザ取得の可能性が
とても高いと言われています。まさに天にも昇る気持ちでした。初対面の私たちにそこまでしてくださるとは! 
このご縁に心から感謝です。
これでやっと、ワークビザが取れる見通しが開けてきました。
現在まだ申請中ですが、2年間ここに滞在し生活できると確信して、次は家探しを始めました。
はじめの3週間はモーテル暮らしで、毎日毎日、不動産屋と借家めぐり、おかげでクライストチャーチの
地名と道をすっかり覚えてしまいました。30軒以上も見て歩いたでしょうか、やっと気に入った家が見つかり、
5月17日に引越すことができました。海と丘の見える、大きな庭のある家です。

シュタイナースクールに通うためにこちらに留学して3年目の長男・謙雄、同じく1年目の次男・耕太らと
合流し、7月から兄たちに仲間入りする予定の娘・藍は、入学に向けて語学学校に通い始めました。
こちらに来てかれこれ2カ月、ようやく念願かなって、ニュージーランドでの親子水入らずの生活が
スタートしたのです。

今私たちが住んでいるクライストチャーチは、人口35万人の日本で言えば倉敷くらいの街です。
街そのものが庭園のような、花や緑にあふれたたいへん美しいところです。



市街地は半径1Kmの中に凝縮されていて、そこに行けば生活に必要なものは、何でも揃います。
また中心地から車を15分も走らせれば、羊が草を食む牧草地とニュージーランド最大のカンタベリー平野が
あり、野菜や果物を生産する田園風景がひらけてきます。

この2ヶ月間に、私たちも魅力的なお店にたくさん出会うことができました。
たとえば、日本のトップレベルにもひけをとらないほどおいしい豆腐屋さん、刺身で食べられるくらい新鮮な
魚を売っている魚屋さん、オーガニック専門店もありますし、スーパーも特色のあるお店がいろいろあります。
特に「New World」というスーパーが私たちのお気に入りで、ここにはオーガニックコーナーや
日本食材のコーナー、ホームメイドのパンなどもあって、この一軒でほとんどのものが揃います。

そしてうれしいのは、食材がどれも格安だということです。リンゴが3Kgで110円(1個5円くらい!)、
ジャガイモが10Kgで300円、お米は1Kg60円で、コシヒカリでも150円程度ですし、
食パンも2斤で80円という安さです。また、ワインの生産が盛んなこともあって、ほとんどが無添加ワインで、
1本500円くらいで手に入ります。ビールもクライストチャーチに工場があり、鮮度のいいビールがいつでも
飲めて、1本60円。日本ではあまり飲まなかったアルコールの量が、このところ増えたみたいです。
レストランもたくさんあります。中華や和食はもちろん、タイ・ベトナム・韓国・インド・イタリア・スペイン
・ギリシャ・フランス……と各国のレストランが、徒歩10分圏内に集まっています。
料金はやはり安くて、ランチで500円、ディナーで1000円もあれば、充分な味とボリュームが楽しめます。
もちろん高級レストランもありますが、たいてい3000円もあれば大丈夫ですし、5000円以上のところは
まずありません。また、何よりうれしいのは、水がおいしいこと。海外では生水を飲まないようにと
よく言われますが、そんな心配は全くいりません。ごはん、みそ汁、コーヒー、紅茶……水がおいしいと
何を料理しても最高です。その上、水道料は無料!

無料といえば、先日、在住9年の稲川さんご夫妻に貝掘りに連れていっていただいたときのこと。
こちらでは貝を食べる習慣がないらしく、砂浜は宝の山! 歩くたびに足にごつごつとあたるくらいで、
30分ほどでバケツいっぱいのアサリが取れました。おかげで、貝の中にスパゲッティがあるといった
贅沢なボンゴレに、貝のみそ汁やアサリのワイン蒸しと、2日間アサリづくしをたっぷり堪能できました。
クレソンなども澄んだ小川の両岸にビッシリ群生していますし、郊外を一回りすれば、あちこちに野菜と
果物の直売所があったりと、私のような食いしん坊にはほんとうにたまらない街です。
結局、私はこちらに来ても食べてばかり。私の場合、生きることは食べることから離れられないようです。
どうです、みなさんもニュージーランドに行きたくなったでしょう。
私たちのニュージーランドでの新生活は、こんなふうに新鮮な驚きと刺激に満ちています。

ニュージーランド人物列伝

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第一回 弓削 亮三・津多美 ご夫妻 日本食「大阪屋」オーナー



ニュージーランドに来てからの、多くの素晴らしい人々との出逢いを、ぜひみなさんにも共有して
いただきたいと思い、このコーナーで毎回1人ずつ紹介していきます。

さて第一回目は、ニュージーランドで「大阪屋」という日本食レストランを経営する、弓削亮三・
津多美ご夫妻です。

「大阪屋」は、お昼時ともなると行列ができるほどの、クライストチャーチ1番の人気店です。
店内はとてもフレンドリーな雰囲気で、留学生たちの情報交換の場ともなっています。
「さんきゅー、べりまっち!」と威勢よく応対する弓削さんの、おおらかな人柄が、訪れる人に
元気を与えてくれます。

3年前、長男・謙雄が留学するとき、「わら」の常連客の若松さんから紹介していただいたのが、
お付き合いの始まりでした。
私たちの渡航に際しても、いろいろとアドバイスをいただきました。
弓削さんにも3人のお子さんがいて、まず上の2人が留学し、1年後にご夫妻と下のお子さんが
後からついてきたという、私たちとよく似たケースだったこともあって、目標にさせてもらって
いるご家族なのです。

今回、改めてご夫妻にじっくりお話を聞いてみると、私たちとの多くの共通点に驚き、新たな発見
のいくつかには大きな感動をおぼえました。
「大阪屋」のメニューは、お好み焼き、ラーメン、トンカツ、テリヤキ丼と、日本人に馴染みの深い
庶民的な品揃えです。
でも自然食とはほど遠いものばかりですから、そういうことへの関心は無いものだとばかり思ってい
ました。

ところがよくよく聞いてみると、日本にいるときにはヨガを習い、玄米菜食を実践し、環境運動にも
参加したりしていたというのです。
津多美さんは正食協会の料理教室にも通ったそうで、現在も菜食の生活を続けています。
では、「大阪屋」はなぜ? と思われるかもしれませんが、長く外国にいる日本人にとって、
これらは最も恋しいメニューなのです。
弓削さんは、自費留学で頑張っている貧乏学生や旅行者に安くておいしい食事を提供したい、
お腹も心もいっぱいになってもらいたいと考えて、この店を始めました。
食べてくれるお客様に、食事とともに心までホッとするものを提供することが、弓削さんの最大のこだ
わりだったのです。
「うちはレストランやない、日本食のファーストフードや」弓削さんはそう言います。
しかし「大阪屋」のメニューは、ご夫妻の愛情と誠意がそのまま形になったもの。
だから日本人のみならずニュージーランド人にも大人気のお店になったのでしょう。

そして成功のもうひとつの秘訣は、日本食の基本「ごはんがすすむ」メニュー作りに徹したからでしょう。
桜沢如一は「人生の目的は、自由に楽しく生きること」とし、その手段として玄米菜食を奨めました。
弓削さんは同じ目的を違う手段によって達成しようとしているに他なりません。

私はこれまで、食にこだわりすぎて逆に不自由になっている人をたくさん見てきました。
ハガキ道を創始した坂田道信さんがいつも「生命はバランス体だ」と言っています。
これしかないと思って、それにこだわったとき、もうすでにバランスを壊してしまっているのです。
その点で弓削さんは、素晴らしいバランス感覚の持ち主と言えるでしょう。
「物言わぬ 物言わす 物づくり」──「わら」が目標としてきた食のあり方を、弓削さん夫妻は別の
形で、9,000km離れたこの国で実現させていたのです。

弓削さんは言います。「まず家族のためにが基本」そして「商売は家族の学校。商売のおかげで成長させて
もらった」と。まさに私たちもそうでした。
さてニュージーランドで大成功した「大阪屋」ですが、これからの夢は?と尋ねたところ、津多美さんは
英語を教える仕事をしてみたいと答えました。
自分が苦労しただけに、これからやってくる人たちの手助けを少しでもしたいのだそうです。
「人は苦労の分だけやさしくなれる」そんな言葉がフッと浮かんできます。
ご主人の方は、「大阪屋」を世界中に広げ、最後には大阪に支店を出すことが夢なのだそうです。
これはおもしろい! 私もこの夢に乗った! 「大阪屋」の“安くて うまくて フレンドリー”に、
「わら」の“おいしく 楽しく ありがたく”をくっつければ、“ごはん”による世界制覇も夢じゃない!
一緒にやりたいと思う人、この指とまれ! 世界中の人々が“ごはん”を主食にするようになれば、
きっといつか食糧問題も環境問題も改善されるに違いない……弓削さんといると、こんなことをつい本気で
話し込んでしまいます。

丼めしを食べて元気をもらい、でっかい夢を語りに「大阪屋」を訪ねてみませんか? ちょっと遠い“大阪”だけど。


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